鼻唄クラシック


「運命」の一瞬

 最近はそうでもないのだろうが、昔はクラシックの定番といえばベートーヴェンの「運命」、シューベルトの「未完成」であった。LPの時代は、この2曲のカップリングがとても多かったわけだし、今でも「ベスト100クラシック」などという企画にはこのカップリングが入っていることが多い。
 さて、この「運命」だが、正式には交響曲第5番ハ短調作品67というのである。
 ぼくは、長いあいだこの曲の良さを理解できなかった。
 第1楽章冒頭、例の「ジャジャジャジャーン」というリズムがあの手この手で形を変えながらもしつこく繰り返されるのには正直言ってうんざりしたし、終楽章のコーダの部分は、さあ終わるぞさあ終わるぞと思わせながら、なかなかフィニッシュしない。友人A(京都の老舗の若旦那)はこれを評して「京都のおばあちゃんのさよなら」と言った。なかなか帰らせてくれないのだ。
 どうしてこの曲は名曲なのか。「運命はかく扉をたたく」「絶望から歓喜へ」と言われても、「ああそうですか」としか答えようがなかった。
 ところが、あるCDを聴いたときから、この曲はぼくにとって大好きなものの一つになるのだから、わからないものだ。
 そのCDは、フルトヴェングラーが1947年の5月26日にベルリン・フィルを指揮したライヴ録音である。演奏会場の名をとって、「ティタニア・パラストの運命」と呼ばれるこの録音は、戦時中、フルトヴェングラーがナチスに協力したという理由で公式の演奏会で指揮をすることを禁じられていたのが、仲間の音楽家たちの嘆願などもあってなんとか復帰できた、その記念のコンサートの録音なのである。
 久しぶりに手兵ベルリン・フィルを指揮することができる、その喜び。観客たちも彼の復帰を待ち望んでいた。そんな空気が録音から伝わってくる。いや、そういった知識がなくても、この演奏には他の演奏にはない鬼気迫るものがあるのだ。それを言葉にしようとも、陳腐なものになるだけなので、ここはその録音を聴いてもらうしかない。
 とにかく、この演奏が終わった瞬間、ぼくはこの曲がどうして名曲なのか、わかってしまったのだ。そして、それまで聴いていた「運命」のCDを聴き返すと、指揮者たちがどのような解釈でこの曲を演奏しているのかが少しずつ見えてくるようになった。これこそが、クラシックを味わう醍醐味といえるだろう。
 その意味で、フルトヴェングラーのこの録音を聴き終えた瞬間は、ぼくにとっても「運命の一瞬」といえたのではないか。オーバーかもしれないけれど、そんな気がするのである。
 ちなみに、この録音は演奏会の2日目のもので、初日の録音もCD化されている。これもすばらしい演奏だが、「運命の一瞬」を与えてくれたという意味で、ぼくは26日の録音の方に愛着を感じる。
 学校の音楽鑑賞でこの曲を無理やり聴かせることが多いようだが、よほどの演奏でない限りこの曲を聴いて感動するのは難しいと、ぼくは思っている。それは、ぼくにこういう一瞬があったからかもしれない。 

(1997年10月11日記)


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