鼻唄クラシック


メニューインの品格

 先日天寿を全うしたユーディ・メニューインについて書こうと思い、さて、彼の演奏を一言で表すとしたらどういうべきかと考えてみた。
 メニューインは若いころは天才少年と呼ばれ、ブルーノ・ワルターやヴィルヘルム・フルトヴェングラーといった戦前派の大指揮者と協演した名ヴァイオリニストであった。晩年はさすがにヴァイオリンを弾く体力がなくなり指揮者としても活躍したが、ファンの記憶に残るのはヴァイオリニストとしての活躍である。指揮者メニューインについては後述するが、まずはヴァイオリニストであるところのメニューインについて書く。
 ヴァイオリニストと一口にいってもいろいろとタイプがある。ヤッシャ・ハイフェッツやルッジェーロ・リッチ、サルバトーレ・アッカルドのようにその技巧を聴かせるタイプ。情熱的で燃焼しきった演奏のチョン・キョンファや前橋汀子。音色の美しさや流麗さを誇るイツァーク・パールマン。技巧を尽くして音楽を丸裸にするようなギドン・クレーメルなど。私はどのタイプの演奏家であっても、それぞれの特質を楽しみたい。
 しかし、どのタイプがいいかというと、実はメニューインみたいなヴァイオリニストがすきなのだ。技巧をひけらかすわけではない。音色の美しさを強調するだけでもない。しかし、その音楽の持つ意味を余すところなく伝えるような、そういうヴァイオリン。ダビッド・オイストラフも同じようなタイプだ。一言でいうと、品格のある演奏家というのか。
 フルトヴェングラーと協演したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の録音(英テスタメント)を聴くと、そのロマンティックな音色に聴き惚れてしまう。当時のモノラル録音であっても、表現の豊かさが伝わってくる。
 あるいはエイドリアン・ボールトの指揮したブラームス交響曲第1番(英EMI)を聴いてもいい。演奏会でボールトと協演したメニューインはその指揮に惚れこみ、ソリストとしてではなく、オーケストラの一員として録音に参加することを申し出た。第2楽章のヴァイオリンソロのパートをメニューインは弾いているが、そこだけ浮き上がってしまうことなく、しかし心に響く音色を聴かせている。しかも録音データにはメニューインの名は書かれていない。さりげなくこういうことをして嫌みにならない演奏家なのである。そういえば、ボールトも品格のある指揮者であった。
 指揮者としてのメニューインは国内盤の発売があまりないからか、日本の評論家からはほとんど無視された格好になっている。しかし、ロイヤルフィルハーモニーオーケストラの芸術監督を務めるなど、イギリスでは評価されているのだ。シンフォニア・ワルシャワを指揮したベートーヴェンの交響曲全集(英IMG)はロマンティックな表現で、古楽器のあっさりした響きが人気を持つ現在ではいささか古くさく感じられるかもしれない。しかし、そこにはフルトヴェングラーの響きに通じるものがあるように感じられる。メニューインはフルトヴェングラーを敬愛し、ナチス協力者としてフルトヴェングラーが演奏停止処分を受けているときには解除運動の先頭に立ったという。そんな彼の指揮がフルトヴェングラーの影響を受けていないはずがない。
 品格のある名匠。メニューインを一言で表すとこうなるのではないかと私は思う。その死をきっかけに、おそらく追悼盤が復刻されることだろう。ステレオ録音でなくともかれの残した録音はぜひ聴いてほしい。現代の人気演奏家の持ち得ない品格をそこに感じることができるはずだ。

(1999年3月26日記)


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