21世紀までアイドル


君はICHIGOちゃんを見たか?

 なにか一つヒットすると、その後追い企画というものは何でも出てくる。八〇年代であろうと二十一世紀になろうと、それは変わらない。
 フジテレビの『夕やけニャンニャン』が当たり、おニャン子クラブがヒットした時もそれは同じで、大阪朝日放送は大胆にも『夕やけニャンニャン』の裏番組に後追い企画をぶつけてきた。『YOUごはん まだ?』というタイトルといい、そこに大阪の中高生の女の子を集めたICHIGOちゃんというグループをレギュラーで入れてシングルレコードデビューさせたことといい、まあ、はっきりいって物真似ですわな。
 おニャン子クラブの類似企画としては他にB・C・Gやらブスッ子くらぶなどもあったけれど、それぞれにコンセプトも売り方も違ったはずである。「はずである」と書いたのは、これらのグループのシングル曲はもののみごとにおニャン子の「セーラー服を脱がせないで」のコンセプトを引き写しにしたものだったからだ。それぞれの企画内容が違えば売るべき商品のコンセプトも変わってくるべきなのに、ベテラン作詞家の森雪之丞はまさに職人芸で秋元康のコンセプトをなぞった歌詞をどのグループにも提供した。
 ICHIGOちゃんの悲劇はここに由来する。彼女たちはまさに大阪の庶民的な女の子、そこらにいるお友だちという感じの子ばかり集められていた。おニャン子クラブは放課後の課外活動を意識して命名され、メンバーも優等生タイプから隣のあの子タイプまでバラエティに富んだ構成だった。ではICHIGOちゃんはどうだったかというと、おニャン子クラブが当初目指していた「お友だち」「クラブ活動」感覚をより深くまで突っ込んだグループであったといえるだろう。突出した美人もいなければ、いくらなんでもそこまでというレベルの子もいない。よく似た感じの女の子が九人集まった、そんなグループだったのだ。より視聴者に親しみやすいグループを、というのは、いかにも大阪の放送局らしいコンセプトではないか。だから、シングル曲も東京の高校生の感覚ではなく、大阪の高校生の、学校の帰りにお好み焼きを食べたいのなんのというような感覚で書かれたものでなくてはならなかったはずである。ただ、この当時、大阪在住の作詞家というと演歌系の人たちしかおらず、そういうコンセプトを歌詞にしてくれる人がいなかったという実情はあっただろう。今だったら関西系のアーティストたちが全国に進出しているから、誰か書いてくれるのではないか、と思う。
 で、ふと思い出したのがつんく♂である。つんく♂はプロジェクトを組んでモーニング娘。をはじめとするアイドル集団をプロデュースしているではないか。つんく♂が集める女の子たちはICHIGOちゃんと同じく突出した美少女はおらず、親しみやすいキャラクターを揃えている。
 いや、もしかしたらつんく♂は当時、おニャン子クラブとICHIGOちゃんを比較しながら見ていたかもしれないではないか。となると、よきプロデューサーがいたら、ICHIGOちゃんはモーニング娘。になっていたかも……そこまで書くと誇大妄想になるだろう。
 当時、おニャン子クラブには立見里歌(たつみりか)というメンバーがいた。同じ年頃でコロムビアレコードのオーディションに合格した辰巳理香(たつみりか)というアイドルがいた。前者は東京発の全国区、後者は関西ローカルの情報番組『おはよう朝日です』のアシスタント。アイドルとしてのかわいらしさなどでは後者が上だったと私は今でも思っているのだが、同じ読みの名前で関西ローカルとなると、後者は弱い。結局結婚して芸能界を引退した。
 私は思う。ICHIGOちゃんが二番煎じでなく独自の存在として認知され、関西ローカルであってもモーニング娘。的なポジションについていたらどうなっていたか。関西発の人気アイドルというものが次々と登場する場面を夢想するのである。関西はいわゆる「お笑いタレント」のみを供給するだけでないというありかたもあったのでは。ICHIGOちゃんは真似しいではあっても決して二番煎じだけの存在ではなかった。そういう思いを抱きつつ、私は当時ICHIGOちゃん解散の報に無念の思いを抱いたものである。

「別冊宝島907 音楽誌が書かないJポップ批評31」(2003年11月28日発行)

追記 本サイトにアップしていた文章を読んだ編集者より依頼があり、書いたもの。まさか「別冊宝島」にこんな形で初登場することになるとは思わなかった。本当に久しぶりにアイドルについて書いた。もっとも、内容は17年前に書いたものとほとんど変わってはいないのだが。


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