時は大正時代。フランスで高等遊民をしている華族の御曹子、伊集院従吾は、おじの海軍将校に呼び返されて南海の孤島七首龍へ。ジンギスカンの墓から出てきたというオリハルコンの金属板に刻まれた文字から、義経が壇の浦からモンゴルへ持っていったという草薙の剣がその島に隠されていることがわかったという。アメリカの軍人、黒魔術を操るドイツ人公爵など剣をつけねらう敵との空中戦があり、また、同行する博識だがたがのはずれた考古学者、従吾のフランスでの恋人、日本での婚約者のお嬢様、そしてなんでもやってのける従者と個性的なキャラクターが入り乱れ、孤島での冒険が始まる。
キャラクターに魅力があり、道具立ても面白そうなのにもうひとつ乗り切れないのはなぜだろう。ごった煮で統制がとれていない印象を与えるのはなぜ。
作者が自分の作った設定に酔ってしまっているのじゃないか。
モンゴルにいってジンギスカンになった義経の剣が南海の孤島にある理由、その剣がオリハルコンでできている理由、それらに説得力がないのである。それなら「宝物」と書いた紙を取り合っているのと変わるまい。
つまり、アイデアの肝心かなめの部分をぞんざいに扱っているということなのだ。
ツェッペリンと複葉機の空中戦を描きたいのら、別なアイデアで書けばよい。洞窟の中で活劇をしたいのなら義経やジンギスカンでなくてもシバの女王でもかまわない。冒険活劇の芯になるものはなんなのか、作者の誤解はそこにあるのではないだろうか。
作者だけがいいぞいいぞと手を叩いているように感じられるのだ。せっかくの魅力的なキャラクターなのだから、舞台もそれにふさわしく十分に練り上げたものにしてほしかった。もったいないことです。
(1998年5月2日読了)