哲学者である著者が、万歳の源流をたどり、近代漫才に至る歴史を俄(にわか)などもからめながら俯瞰した労作。親本は1979年に出ているが、漫才の歴史をそのやりとりが含む思想にまで踏み込んで考察した本書は、決して古びてはいない。
漫才と西洋から移植された近代演劇の違いを、著者は、前者は大衆の思いを言葉にし何かの目的を達成する意識がなく、後者は一つの目的に向かって意識的に作り上げられたものだとする。そこには即興性や弾力性があり、支配者のつむぎ出す言葉を崩していく批評があるのだ。
近代漫才の祖である秋田実や長沖一がもともとはプロレタリア文学を志向していたことを詳述した上で、彼らが大衆の言葉として漫才を選んだこと。そして漫才を大衆の芸として大成させた吉本興業の林正之助もまた大衆文化としての漫才を強く意識していたことなど、大衆のものとしての漫才の歴史とそれが生み出された背景が明らかにされていく。
興味深いのは三河万歳の太夫と才蔵が平安朝の陰陽博士の流れをくむものだという証言で、祭事としての漫才の成り立ちが実は神聖なものだったということがわかる。
太夫と才蔵、すなわちツッコミとボケの歴史をたどるとき、私たちはどんな境遇をも笑い飛ばして生きてきた大衆の強さを思い知らされずにはいられないのである。
(2000年6月24日読了)