著者が中日新聞に連載したコラムのうち1992年から95年までの間のものをまとめている。阪神大震災、地下鉄サリン事件、青島知事ノック知事誕生という時代背景を念頭において読む。批評は映画が中心で、そこにブロードウェイのミュージカルと演芸が加わる。また芸人に対する追悼文もある。
読んで痛感したのは、批評とは記憶力である、ということ。「豊富な知識」と一口にいうが、記憶力が確かでなかったら知識として蓄えることができない。その記憶力はつまり集中力からきているのであろうと思われる。著者の凄みはその知識量をこれ見よがしに誇らないところ。批評を読む側もこの程度は知っていてほしいけれど知らない人の方が大多数であろうからさりげなく私のような無知な読者にもわかるように噛み砕いて書いている。それを読むと一瞬わかったような気になる。もちろんそれは著者の仕掛けに乗せられているだけで、本当は何もわかってなんかいなかったりするのだが。
こういう文章を読むと自分が「書評家」を名乗るなんておこがましいことだと感じてしまう。私はただの「感想屋」でしかない。なるべく「書評家」に近づきたいと思いながら本を読む。近づいたかなと自分で感じた時に著者のコラム集をこうやって読む。私の物差として著者の批評はあるのだ。どこまで近づけたかを確認するために読む。そして全く近づいていないことに気がつき愕然とするのだ。
(2001年8月24日読了)