私はリアルタイムでは長嶋茂雄選手の晩年しか知らない。私にとって野球選手のスターといえば田淵であり江夏であり掛布であった。監督としての長嶋茂雄は奇矯な采配をふるい選手の力に助けられている、という印象があった。だから、長嶋がジャイアンツの監督を解任された時、世のジャイアンツファンが讀賣新聞の不買運動までしたり、ホエールズが長嶋を監督に呼ぶために関根潤三さんをその露払いとして監督に招いたりした時もなぜそこまで熱狂的になるのかわからなかった。ましてや再度監督に就任してからのあさましいまでに他チームの4番打者をかき集めたりする醜態を見てなぜこのようなわがままが「長嶋」というだけで許されるのかが理解できなかった。
本書は長嶋茂雄が現役時代に活躍していた頃や最初に監督になった頃、そして「文化人」と称してテレビに出演していた頃、再度監督になった後、それぞれの時代に書かれた「長嶋」に関する文章のうち、社会現象として彼を分析したものを収録したものである。
本書を読むと、「長嶋」が敗戦後の暗い世相から高度経済成長期に時代が切り替わった時期に登場し、その影のないキャラクターが新しい時代の空気を象徴していたことから「ヒーロー」として支持されたことがわかる。人々は会社などに管理された自分という現実と川上監督の管理野球のもとで管理とは無縁な野放図さで活躍した「長嶋」を対比し、自分の夢を「長嶋」に託したのだ。
時は移り経済成長にかげりが見えてくると、長嶋の野放図さはその時代からはずれ、道化にも似た存在になってしまう。彼が道化でなくなるためには再びジャイアンツのユニフォームを着る他はなく、また彼が人々に作られた「長嶋」という虚像を維持するためには常にジャイアンツを一番に保たなくてはならなかった。その結果彼は現役選手の中に自分の分身を求めなくてはならず、それがあのいびつな選手補強につながっていったのだ。
つまり長嶋は戦後の日本人が作り出した大いなる虚像であり、時代の変遷とともにその存在価値が古びてしまったにもかかわらず「経済成長期」の夢を追い続ける者たちによって支持された残像なのである。経済成長期が終わり終末論がささやかれる時代に育った私に「長嶋」の人気が理解できない理由がようやくわかったように思う。
本書では鈴木武樹「長嶋茂雄の『笑顔』を消すことは戦後民主主義を潰すことだ」に見られる逆説的な長嶋像の解明や、大塚英志「仮想現実としての長嶋茂雄」に見られる「長嶋」という虚像の考察が興味深かった。
時代が求めてるものはもはや「長嶋」ではなく「イチロー」であり「新庄」である。「長嶋」はその役割を終えてグランドから去った。さようなら「長嶋」。さようなら「戦後」。時計の針を元に戻すことはもうできないのだ。
(2001年9月2日読了)