日本に漢字が輸入され、漢籍がありがたがられるようになってから、日本語が変質した、と著者は説く。そして、明治維新以後、西洋の言語が「翻訳」という形で日本に入ってきたことによりさらに日本語は変質し、敗戦後に「国語改革」がおこなわれたことがさらに日本語をおかしくした、という。
それを裏づけるため、著者は古今の典籍を引用し、詳細な解説を試みている。もとも日本になかった概念が、漢字の輸入と同時に輸入された。欧米語を翻訳する際に明治の知識人が漢字熟語を使用したのは、漢籍をありがたがる習慣が根づいていたからである。それにより、日本語には同音異義語がやたらと増え、日本語を使う者は、音を聞いてそれにあてはまる漢字を思い浮かべて意味を判断するという離れ業をしているという。そういう意味で日本語は実に特殊な言語となったのだ。その特殊性を無視して漢字不要論や日本語ローマ字化を促進しようとした者たちに対する批判が繰り広げられる。また、戦後の「国語改革」の際に正字を簡略化したことにより、漢字そのものの持つ意味を無視した漢字が使用されることになった不具合を指摘する。
著者の結論は、あとがきにあるように、漢字と日本語は元来相容れないものがあるのだが、それはもう変えることができなくなっているのでこのまま使うしかないが、もともとの「やまとことば」はなるべく漢字を使わないようにし、日本人の思考体系を作り上げてきた言語としての伝統を悪いところもよいところもしっかりと見すえたうえで大切にしていかなければならないのだ、ということになる。
碩学による達見で、私も同感と思えるところがある。しかし、戦後50年たって現在の日本語が定着してきた以上、われわれは結局教わってきた通りにしか言葉を使うことはできないという事実があることも確かで、著者の主張通りにはなかなかいかないということも自覚すべきだろう。
その自覚を持った上で、言葉というものに対する感覚を鋭敏にしていかなければならないと、ものかきのはしくれである私は思い知らされた次第である。そういう意味では、示唆に満ちた一冊だといえるだろう。
(2001年11月30日読了)