障害児教育は教科を指導すればよいというものではない。生活を普通にしていく中で学んでいくことも多い。一般の学校では、生活を中心とした教育は家庭にゆだねられているわけだが、養護学校の場合は、着替え、給食なども指導の中に含まれる。本書は、それをさらにおしすすめ、学校全体で生活を単元として総合的な教育をしていくべきだと主張する。著者は、小学部では同じ「遊び」を毎日長時間繰り返し続けていくことにより子どもに自発的に活動しようという意欲が芽生え、中学部や高等部では木工や農耕などの職業訓練的指導を同様に続けることで自立を促すことができる、と説く。
実に理想的な教育であると思う。そして、その理想を実践する場として、著者の所属する大学の附属養護学校がある。少人数で、行き届いた教育をする。その教育には信念に基づいた方法論がある。理想的である。本書では触れられていないが、保護者もこの環境を支えているのだろう。
が、私はこの理想的な環境に疑念を持つのである。私の勤務する養護学校は、大阪府立である。地域の障害児が、重度軽度を問わず入学してくる。近年は、ひきこもりやPTSDに起因する発達遅滞の生徒も入学するようになった。また、子どもの障害に対して無関心な保護者や学校に対して協力的でない保護者もいる。理想的な教育をする以前に、学校をとりまく環境に様々な制約がある。現実の壁は厚いのだ。
理想の教育実践は、往々にしてその理想に殉じてしまい、理想の環境を作りにくいものに対してもそれを要求してしまいがちになる。
私が本書に感じたのは、そういった理想と現実の壁をうめるところまでの説得力に欠けるということである。私も、生活単元を障害児指導の中心にすえることに反対ではない。が、ほんとうにそればかりでよいのだろうか。職業訓練により、生活に根ざした国語力ゃ計算力はつくだろう。達成感を味わうことで向上心も育つだろう。しかし、音楽や美術などの芸術科目に対する理解が本書にはない。考え方が極端すぎるのである。さらに、重度障害児に対するケアも簡単に触れられているだけである。
つまり、本書で述べられている方法論は理想の環境を整えることが前提となっていて、それができないものにとっては絵に描いた餅でしかないというのが、偽らざる感想なのである。
(2002年2月23日読了)