「爆心地」の中で熊のぬいぐるみ「人工知熊」に入って作業をする人たちがいる。アメフラシを使って火星の開発に旅立つ別種の人間を生み出そうとしている研究者がいる。人工知熊に乗る作業員は、熊の中に貯えられた記憶を吸収し、やがて自分の記憶と他人の記憶、そして熊の記憶がひとつとなっていく。彼らが目指すのは「あたま山」だ。落語にでてくる頭に桜の木を生やした男が花見客がうるさく木を抜いてしまいそのあとにできた穴にできた池にとびこんで死んでしまったという、あの「あたま山」。人工知熊を使っている会社は実は異星人によって支配されているという噂はあるが、それはその会社にいた男が作ったゲームの設定かもしれない。
なにが事実でなにが作られたものか、作者はそれを明らかにはしていない。明らかにしないことにより、われわれが抱く現実に対する確信がゆらいでくる。哲学でいうところの「実存」それ自体が危うくなってしまう。
作者の描き出す世界像は本来なら壮大なスケールで描くべきところなのかもしれない。しかし、作者は決してその方法はとらない。壮大な世界の中に生きるちっぽけな個人から見たその世界の一部分から全体像を読者に推測させる。それは、物語を矮小化するものではない。読者の想像力をかきたて、物語の世界をさらに深遠なものに広げていくという効果をもたらしているのだ。
本書は、小さなエピソードを積み重ねる構成をとっている。タイトルとなっている「どーなつ」を少しずつ食べていく感覚に似ているのかもしれない。そしてそれを食べてしまったあと、そこに確かにあったはずの穴は「どーなつ」とともに、なくなってしまっている。「どーなつ」の穴は、本来どこにあったものなのだろうか。
本書が描き出す世界はまさしくその「どーなつ」の穴に似ている。確かに見えているのにそれ自体は存在していない。不思議な喪失感が全体を貫く傑作である。
(2002年4月28日読了)
(本稿はネット書店サイト「bk1」に掲載されたものをそのまま使用しております)