著者は「うるさい日本の私」で駅や自治体の放送、看板、標語と戦い続けた記録を綴った哲学者である。そして、本書はその「うるさい日本の私」の応用編といえる内容である。
ここで著者は西洋哲学的〈対話〉が日本では圧殺されていると断じる。そのあらわれがのべつまくなく垂れ流されている放送や標語と、それを右から左と平然と聞き流す人々であるとしている。相手が傷つくことを恐れず、対話をせよ。〈思いやり〉は利己的なものであり、言葉の裏にあるものを読み取るという行為は〈対話〉を拒否するものである。〈対立〉により人は他者との差異を確認する、それだけでよい。
著者の言説は、極端といえば極端である。しかし、極論を吐くことにより、著者は読者に問題を喚起し、読者がそれによって「自分の頭で考える」ことを促進しようとしている。哲学的な姿勢というものを著者は単純明快に示そうとしているのである。
無言のうちになんだか嫌な社会になりつつあるなあと漠然と考えていた私にとっては、著者の主張はなんとなく流されながら生きていく自分に対する喝のように思われる。共感する部分も多い。ただ、これを実践するとなると今の自分にはちょっと精神的に絶え切れなくなりそうである。
だから、これだけのテンションを維持できる著者を私は尊敬してしまう。とどうじに、この人が常に近くにいたら緊迫感をもって接し続けなければならない分、疲れるだろうなあとも思うのである。
(2002年6月30日読了)