サッカーW杯の日の丸ペイント、日本語本ブーム、内親王誕生の際の熱狂など、社会にこれまでの右翼的なものとはまた違うナショナリズムが広がりつつある。若者たちは、自分の住む「ニッポン」をいい国だと無批判に肯定し、二世タレントなどの出現に対してもそれに反発も否定もしない。
著者はそういった傾向を若者たちから失われていく「エディプス・コンプレックス」体験と内心の葛藤の不在に原因を求め、論証していく。現実を無批判に受け入れることにより、明らかに「階層」ができていると指摘、それゆえこの「ぷちナショナリズム」はひとつ間違うと一気に全体主義に傾く危険性があると警告する。
私自身、こういった「ぷちナショナリズム」にはなにか嫌なものを感じてしまうことが多い。著者は故ナンシー関がW杯開催時に発した「怖い」「気味悪い」という感想を例示し、それが何に起因するものかを分析する。
日本は煮詰まっているのだろうと、私は思う。将来に対する不安もないかわりに、明るい展望もない。そんな中で個々を支える何かが必要になってきて、それが「ぷちナショナリズム」として現れているのではないのか。
何やら漠然とした不安の原因を解明してくれはするが、その結論から新たな不安がわいてくる。それが「日本」という国の現状なのだろう。
(2002年9月8日読了)