ヴァーチャル・リアリティ、仮想現実……電脳空間に作られたもう一つの世界。人間が慰労のためにそこに訪れ、もっともらしい履歴をもつ人々がそれをもてなす。現在の技術が進めば、遠からずこういった世界が現実のものとなる日もくるだろう。本書はそんな世界に住む仮想人格−AIたちの物語だ。Aiたちにとって転機となったのは千年前に起こった大途絶。この日を境に〈ゲスト〉たちは来なくなり、彼らは長い長い夏を飽くことなく繰り返している。毎日が変わりなく穏やかに訪れる。彼らはこの場所を〈区界〉と呼ぶ。そこに現れた侵入者たちは、〈区界〉を次々と消していってしまう。主人公である少年、ジュールは〈区界〉の設定の発端である『鉱泉ホテル』にたちこもり感覚を鋭敏にする物質〈硝視体〉を使って罠を張り巡らし抵抗する。しかし、侵入者の目的はただ単にこの〈区界〉を破壊するというものではなかった。ジュールの考え出した罠をも利用し、この〈区界〉に作られた物語そのものを使い、やろうとすることがあったのだ。
この物語の面白さ、そして恐ろしさは〈区界〉に住むAIたちが自分たちが作られた人格であることを自覚しているところにある。この空間でなければ生きていかれない自分、誰かによって作られた〈過去〉。たとえ人為的に作られた人格であっても、生きているという自覚がある以上、生への執着をもつ。〈区界〉が変わらぬ日常を意味する場所であるとしたら、そこから脱出できないという運命はその場所を〈苦界〉に転じさせる。
閉息した状況にあっても、自分たちの存在意義を問い続け戦い抜くAIたちの姿は、やはり行き詰まりを見せつつある現代社会に生きる我々の姿に重なりあうものを感じさせる。作者が我々に投げ掛ける問題意識の大きさ、それを侵入者との戦いという形で考えさせる展開のうまさ。みごとである。
作者はかつて『S−Fマガジン』誌上に珠玉の短編を次々と発表していた。しかし、ここ十年間というものは沈黙を続けてきた〈伝説の作家〉である。その沈黙を破って刊行された本書は、この十年という歳月で作者が蓄積してきたものをはっきりと示している。というよりか、作者がとにかく書き続けていたということに、私は感動すら覚えるのだ。一度途切れてしまったものを復活させるには、最初に始めるよりもよほどのエネルギーがいる。10年間、作品が発表されていなかったということには、おそらくはそれなりの理由があるはずだ。それでも、こういった形で再デビューを果たした。これは、できそうでできないことなのだ。そして、それが本書のような秀作であったということ、これは驚異、そして喜び以外のなにものでもない。
本書は大きな物語の序章である。沈黙の十年の間に作者があたためてきたものは少なくないはずだ。今後、この物語がどのように広がっていくかを刮目して待ちたい。
(2002年9月23日読了)
(本稿はネット書店サイト「bk1」掲載分に加筆したものです)