学校は閉ざされた空間である。そこだけでしか通用しないようなルールがあり、生徒と教師には他の社会にはない上下関係と緊密性がある。人為的に構成された「学級」という単位で人間関係が作られ、余暇の過ごし方として「クラブ活動」までが用意されている。生徒たちは校章や制服といったシンボルで帰属意識を持たされながら、決まった年限でそこを「卒業」しなければならない。その中で行われている「授業」や「行事」は、全て社会生活を送る際に必要な基礎的な「力」を養うものと位置づけられる。それがどう役にたつのか、本当のところはわからない。現職の教員である私でさえ、この空間の不思議さについて常々考えさせられることは多い。
本書の舞台は「学校」である。この「学校」は、環境破壊の後始末をするために唯一地球に取り残された日本人が、その特別な役割を果たすためのエリートを養成する「学校」なのだ。全国から選抜された新入生は、不可解な授業やゲーム化された理不尽なテストを受け、主席卒業という目標に向かい3年間ただただ競争し続ける。脱落者は地下クラスに落とされ、彼らは「学校」からの脱走を夢見る。しかし、その脱走と追跡も、ゲーム的にしか展開され得ない。なぜなら、そこが「学校」だからだ。
恩田陸はデビューから一貫して「学校」という空間や思春期の少年というテーマを追い続けている。そして、その成果が本書であろう。カリカチュアライズされた「学校」は、その本質をあらわにし、そこに閉じこめられた少年たちが見る夢は、「20世紀末のサブカルチャー」である。現実に希望の持てない彼らは、最後にただひとつ残された現実的な目標である主席卒業か、既に失われてしまった快楽のどちらかにしかその夢を託せない。
現実の社会でも、少年たちは未来に大きな夢を託すことができず、恵まれた環境にある者がエリートを目指し、それ以外は人為的に与えられた快楽に身をゆだねる。本書は、そういった状況に対する批判の書である。主人公たちが最終的にかちとったものが、それを示している。大人たちがそれを妨害するのは、かちとれなかった者が、可能性を有する者に対して抱くジェラシーなのかもしれない。
本書にはサブカルチャーがカタログのように登場する。作者はあとがきでサプカルチャーに対する愛情を告白するが、それは爛熟し切った快楽の時代へのノスタルジーなのかもしれない。現実は、本書で描かれる世界と同様、暗鬱で空疎なのだから。
(2002年10月25日読了)
(本稿はネット書店サイト「bk1」に掲載されたものをそのまま使用しております)