佐々木小次郎を倒した宮本武蔵の次の目標は、柳生新陰流。柳生但馬守に決闘を申し込もうと武蔵は江戸へ向かう。しかし、新陰流の正統な後継者は、尾張徳川家に使える柳生兵庫助であった。兵庫助は一度は肥後加藤家に召し抱えられながら、キリシタン一揆を征するのに無用の殺人剣をふるってしまったことを悔い、諸国をめぐって修行した後、活人剣を完成させて尾張義直の兵法指南役となっていたのだった。但馬守の門弟と試合をした武蔵は、但馬守本人とも試合をしたいと願い出るが、沢庵より新陰流の正嫡は兵庫助と知らされ、尾張へ。執拗に決闘を願い出る武蔵であったが、兵庫助はとりあわない。武蔵の殺人剣は兵庫助の活人剣を上回ることができるのか。
本書では、武蔵と柳生ではどちらが強かったのかという時代小説ファンの夢がかなえられる。ただし、ここでの武蔵は剣で身をたてるために生き急ぐ野獣であり、兵庫助は若くして剣の極意を身につけた大人である。ただただ人を倒すだけの武蔵の剣、人を生かすために使われる柳生の剣。武蔵が老境に至って到達したと思われる境地に、兵庫助は早々と到達してしまっている。だから、本書を読んでいると、武蔵はどのようにして兵庫助の境地に肩を並べるようになるのだろうかという興味を抱かせる。常に殺気をはらんでいる武蔵の剣は、尾張義直から正統なものではないと拒否されてしまう。なにやら武蔵が哀れに思われてしまう。
地方から剣一本で這い上がってきた武蔵には、ものを大局でとらえることができない。対して、幼い頃から英才教育を受けてきた兵庫助には、それができる。この差はいかんともしがたいものがあるのだが、作者はそれを承知の上で武蔵の不足をついてくる。そこに「都会人」である作者の冷たさを感じてしまう。
剣豪小説としては興趣に富んでいて面白く一気に読ませる作品なのだが、ここらあたりの手触りのひんやりしたところがいささか気になる。なんのために武蔵と兵庫助を対比させたのか。対比させるならば、少なくとも優劣の差は対決シーンまで明確にしない方がよいのではないだろうか。そこらあたりにひっかかるものが残ってしまったのである。
(2003年3月2日読了)