現代人は「心の病」を抱えている、などというように、我々は「心」という言葉をよく使う。しかし、著者はこの「心」という言葉に当たるものは英語圏にはないと指摘し、「心」というものそのものの存在に疑義を提示する。著者は、人間のコミュニケーションの最大の手段である「言語」を重視し、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を用いて、言語の重要性を確認していく。そして、言葉そのものが紡ぎ出すものの中に人が「心」を見い出すプロセスを概観する。
確かに「心」という言葉は便利である。感情から集中力まで、人間の行いを「心」という言葉を用いて表現すれば、なんとなくわかったような気がしてしまう。著者は、それでいいのかと読者に問いかけているのだ。行為そのものを分析すべきであり、そこに「心」という言葉をはさみこんでしまったら、思考停止になってしまうのではないかと危惧しているのである。
私が本書を読んで感じたのは、「心」というものはキリスト教圏やイスラム教圏では神、かつての共産圏ではイデオロギーによって置き換えられるようなものなのではないかということである。現代日本で我々がよりどころとするものは「心」なのかもしれない。
(2003年4月13日読了)