アトムの誕生日にちなみ「謎本」的なものが多く刊行されている。しかし、多くは表層をなぞったものや、単行本を読めばわかるものばかりである。そのような中で、本書は異彩を放っている。なぜならば、戦後民主主義とともに語られる「手塚ヒューマニズム」を解体し、戦前からの日本の漫画受容と手塚治虫の漫画との関わり、手塚の漫画はそれまでのものとどう違ったのか、そして「新宝島」神話の解体と、アトム以前の部分に大半を費やし、そこから「鉄腕アトム」が生まれてきた状況を、そして〈成長〉の拒否を余儀無くさせられる「アトムの命題」を後の手塚作品だけでなく梶原一騎までもが引き継いでいる事を指摘していくという、著者独自の手塚論だからなのである。
手塚治虫の「新宝島」が、当時の赤本漫画の定番である「ターザン」と「宝島」のいただきでしかなかったことを指摘したあと、それ以前に書かれた習作、特に終戦の年の6月に書かれた「勝利の日まで」を徹底的に分析し、手塚が漫画的記号をディズニーや田河水泡から学びとり、そこに実体験である空襲などをリアルに描くことで記号である漫画に写実的描写を組み込まざるを得なかったその時の感情を読み取る。漫画的記号で描かれたものは、撃たれても切られても血の一つも流すことはなかったのだが、手塚はこの時点でそのような人物も切られれば血が出、死にさえするものとして描いた。それが手塚の革新性だったのだという指摘は重要である。また、手塚漫画の描写があくまで記号の集積であり、絵画とは別種のものであることを手塚自身の証言から引き出し、手塚漫画が戦前から続いてきた漫画の技法の集大成であることを明らかにしていく。
そして、「アトムの命題」が戦後漫画にもたらしたこと、戦前、戦時下、占領下、そして戦後と続く現代史のなかで「アトムの命題」がどのように手塚漫画の中で展開していったかが結論づけられるのである。
サブカルチャーとしての漫画を読みとく作業を続けてきた著者が、あえて鉄腕アトムの誕生に合わせて本書をぶつけてきた理由は明らかである。「アトムビジネス」が巨大化し、アトムに便乗した「手塚バブル」のようなものに対して、誰かがきちんとしたものを残さなければならないという使命感、あるいは表層的に語られる「手塚ヒューマニズム」への反論、さらには神格化される「手塚治虫」に対してありのままの手塚治虫の姿を明らかにしておきたいという欲求……。
本書は、「手塚バブル」に乗った「手塚治虫マガジン」の対極にある。そして、手塚治虫論に限定せず、大きく「漫画」についてとらえた優れた漫画論なのである。
(2003年4月26日読了)