戦後の芸能界をリードし、そして大衆の気分を代弁した4人のスター、美空ひばり、中村錦之助(後に萬屋錦之介と改名)、石原裕次郎、渥美清をモチーフに、昭和という時代の空気をたどっていこうという試みが本書である。
著者は大宅壮一ノンフィクション賞も受賞した社会派のノンフィクション作家だけに、その切り口も独自のものがある。それは、一貫してその当時の大衆が彼らに何を求めていたかという視点を崩さないというところだ。
子どもなのに大人の歌を歌って登場した美空ひばりは、戦時中に「少国民」として小型の大人という生き方を押しつけられた子どもたちの延長であるという主張はこれまでにない画期的なものだ。また、ひばり母子と山口組のつながりを貧困から復興に向けてなりふりかまわなかった大衆に重ね合わせ、ひばりがあくまで戦前から戦時中の心性を保ち続けた存在であったことを指摘する。
これに対して中村錦之助は、梨園の御曹子から映画界に、つまり上から下に降りてきた者として、戦後民主主義の象徴という位置を与えられる。錦之助は俳優組合の結成などにも関わり、あくまでも大衆の代弁者という位置を離れなかった。したがって錦之助だけは「記念館」にまつりあげられることはない。
裕次郎は高度経済成長期に登場し、貧困から脱した大衆の憧れの的となる。実際、資産家の息子であり、貧しさを感じさせることのなかった裕次郎は、地方から出てきた若者たちがこうありたいと願う存在であった。しかし、彼は政治家となった兄の慎太郎とともに、権力に近いところにいつづける存在でもあった。
公害問題などで高度経済成長の弊害が明らかになったころ、渥美清はテレビというメディアから人気を得てくる。「男はつらいよ」の「寅さん」になり、そこから離れることを許されなかった渥美は、経済成長で大衆がなくしてしまった「故郷」を象徴する存在であり、経済成長、そしてバブル経済のツケを払い終ることができない社会の状況が、渥美から「寅さん」を切り離させることができなかった原因なのである。
スターは世相を象徴する。そのスターの移り変わりをテーマに社会の、そして大衆の動きの変化をとらえるという試みは成功しているし、説得力もある。ただ、本書で気になるのはその「大衆」のとらえ方である。著者の視点ではどうしても大衆は労働者階級につながってしまい、社会主義的な「階級」という発送から抜け切れないでいるように思われる。
むろん、国民総中流化という意識は幻想でしかなく、階層というものは厳然と存在する。が、階層は階級とは違うのではないだろうか。1945年生まれの著者の感覚と、1962年生まれの私の感覚の違いが、本書に説得力があるだけに浮き彫りにされる。
とはいえ、本書は優れた社会論であり、昭和という時代を極めて明解に解き明かしたものであることはいうまでもない。私自身、今後、芸能というもを考える時、本書の内容を無視することは多分できないだろう。それだけの重みが、本書にはある。
(2003年8月15日読了)