作者の第2長編と第3長編の合本。
『沈黙』は、美大に通う秋山薫子が主人公。彼女の実の祖母の遺品を引き取った時に、その姉から祖母にあてた手紙を発見した彼女は、祖母の生家を訪ねる。祖母の姉、大瀧靜はまだそこに住んでおり、一人で家を守っていた。靜と意気投合した薫子は下宿を引き払い一緒に住むことにする。地下には靜の甥の修一郎が残したレコードとノートとオーディオルームがあった。薫子はそのノートに記録されていた幻の音楽〈ルコ〉の存在を知る。逃亡奴隷たちが生み出したという〈ルコ〉とはどのような音楽だったのか。また、幼いころ鍾乳洞に迷いこんで発見されてから人が変わってしまった弟、燥は、彼に接触した人間を滅ぼす〈絶対悪〉といえる存在となっていた。薫子は〈ルコ〉の本質を感じとり、燥と対峙する。燥に秘められた〈闇〉に立ち向かうために……。
『アビシニアン』は、中学を卒業したばかりの少女エンマが主人公。彼女は、転居の際にアビシニアン種の愛猫を母親から保健所で処分される。アビシニアンは秋山薫子の手で保健所から解放されていた。彼女は中学を卒業すると同時に全てを捨て、アビシニアンを探す。見つけると、そのアビシニアンとともに野良猫の生活を始める。アビシニアンが亡くなったあと、生まれ変わった彼女はマユコという女性と出会い、マユコの家族となり、エンマという名をつけられ、ダイニングバーで働く。そのダイニングバーの常連客の一人は、常にノートにシナリオを書いていた。彼の語るストーリーに共鳴したエンマは、彼の希望で彼のことをシバと名付ける。二人が共鳴しあったその先にあるものは……。
『沈黙』に圧倒させられる。言葉で表すことのできない「音」の表現をひたすら追究する。その「音」は、生きるということそのものであり、再現のできない一回だけのものなのだ。それを否定するような「闇」そのものである燥という存在は、薫子が体感するにいたった生の律動である音楽と真っ向から対立するものである。その対決するシーンの緊張感ときたら! 言葉にならないものを言葉にし、そして言葉の限界を悟らされる。
『アビシニアン』は『沈黙』にワンシーンだけ登場した少女を主人公にしたものである。彼女が否定するのは〈文字〉そのもの。猫と生活し生まれ変わった彼女は文盲になっている。しかし、語られる言葉に対しては鋭敏な感覚を持っている。それに対立する存在となるのはシナリオを文字で書き留める大学生だ。ただ、この物語ではそれは対決という形は取らず、エンマにシバが共鳴し、文字をともに否定するという方向で進む。作家が文字を否定するなんて。いや、『13』から『沈黙』と書き続ける過程で、作者は〈書く〉ということの限界にぶち当たったのだろう。そして、一度そのおとしまえをつけるような形で〈文字〉を否定することを主題とした『アビシニアン』を書いたのではないだろうか。それも、なんとも甘いラヴ・ストーリーとして!
それにしても、この2冊を合本にするとは思い切ったことをしたものだ。もちろん、作者の内面では必然性があってそうしたのだろう。音というものを文字で追究したあと、その文字を否定するというつながりは、確かに続けて読んでほしいテーマだったのかもしれない。しかし、『沈黙』を読み切った時点で続けて『アビシニアン』を読むのはかなりきつい。私は結局『沈黙』のあと別な本を読んだりしている。でないともたない。それくらいどちらの作品も濃密なのだ。
恐るべき言葉の求道者である。年1冊のペースでしか新刊が出ないのもむべなるかな。
(2003年8月22日読了)