独居老人、佐藤嘉兵衛95歳。息子夫婦との縁も切れ、ヘボ碁のみが楽しみであった彼は、孫夫婦に呼ばれ、曾孫のさおりと楽しい一日を過ごす。自室
で一人きりで死んでいった彼の体はミイラと化し、心は地上に残ったままとなる。彼の心は自由に町を飛びまわる。さおりが事故死した時、彼は孫の純一の耳に
ささやきかける。さおりを乾燥剤で包んでミイラにしなさい、と。さおりの心はこの世に一時的にとどまる。妻が死んだマンションの管理人、若くして夫を亡く
した若妻などに、彼はささやきかけ愛する人の心と最後にもう一度会話をするように仕向ける。そんな彼は恋をした。車椅子なしでは動けない老婦人、岡田秋子
である。ところが秋子は老人を虐待する介護施設に送られてしまう。愛する人を助けたい彼がとった方法は……。
死んだ者が地上に残した思いを、作者は一種の幽霊譚として描く。しかし、この幽霊の残した思いは、恨みではない。心残りという言葉がこれほどぴったりす
るものもないだろう。人の心にあるなんともしれぬやさしさ、生きているものが縛られるもののちっぽけさ。独特の温かみを持たせる作者の筆致に思わずひきこ
まれてしまう。
デビュー作でも作者は独特の筆致で異形化していく者たちを柔らかな手触りで描き出していた。久々の書き下ろし長編である本書では、それがもっと純化され
ている。特に目新しいアイデアではない。しかし、作者だけが持つ感性が、この昔からあるアイデアに新たな命を吹き込んだといえるだろう。
珠玉の小品という言葉がこれほどふさわしい作品もなかなか出てこないのではないか、と思わされたのである。
(2003年10月15日読了)