以前、私は牧野修について「言語感覚の鋭敏さには舌を巻く」と書いたことがある。この短編集を読むと、確かにそれは間違いではなく、それどころかその言語感覚ゆえに牧野修の小説は優れているのだと実感させられる。
しかし、この短編集でそれ以上に感じさせられたのは、身体感覚に対する鋭さである。例えば、「踊るバビロン」である。ここに登場する〈家具人間〉は、痛みというものが理解できない。痛み自体は感じるのだがそれは単に刺激にしか過ぎず、我々が感じる痛みではないのだ。そして、そんな〈家具人間〉に道具のように扱われ身体を徹底的に傷つけられる人間は、その痛みの極限に至った時、なんと〈物語〉を生み出してしまうのである。
言語と身体が一体化するとなると、「逃げゆく物語の話」であろう。書物が完全に記号化され、それがラングドール(言語人形)という形のアンドロイドに形成される。言語統制のためにホラーやポルノのラングドールは狩られることになるのだが、傷つけられた部分からまるで人間の血のように言語がこぼれ落ちるのである。
言語の具現化といえば「インキュバス言語」にとどめをさす。〈インキュバス言語〉を与えられた男の猥雑きわまりない言葉は、世界を変化させ、崩壊させてしまう。身体どころか、この世界そのものが猥雑きわまりないものなのだという本質をえぐり出す。
「或る芸人の記録」では、一世を風靡したが現在は落ちぶれてしまっている芸人が、世界を滅亡させるほど力を持った謎の生命体を言語により笑わせてしまうのである!
本書は、ホラー・アンソロジー、バカSFアンソロジーのために書かれたものを中心としている。そして2編だけ本格デビューする前に発表されたものも収録している。しかし、それらは作家としてポジションを確立させてから書かれたものの間にまじっていても、なんら違和感を生じさせない。文章の硬さなど若さを感じさせるところはもちろんあるのだが。
現実世界に対する違和感、理解できないものを排除しようとする社会への不信。そういったテーマがどの短編にも感じられる。本書は牧野短編の精髄である。『忌まわしい匣』と並ぶ傑作短編集として書棚に並べておいてほしい一冊である。
(2003年11月24日読了)
(本稿はネット書店サイト「bk1」に掲載されたものをそのまま使用しております。ご購入はこちらから)