ジャズ喫茶の司会を振り出しに、ラジオパーソナリティー、映画解説、そして古代史に関する著作など、関西では知らぬ人のいないといっていい著者による回想記。
学生時代、放送部に所属して、アルバイトでやったジャズ喫茶の司会。靴下の会社の宣伝部に在籍してCM制作に関わったこと。退職後、フリーで司会を始めると渡辺プロに誘われて東京で司会業の腕を磨いたこと。両親のために京都に帰り、吉本興業と契約して漫談家として再スタートを切ったが、失敗したこと。吉本をやめて現在の昭和プロダクションに移り、ラジオ大阪「ヒットでヒット、『バチョン』といこう」のディスクジョッキーとして、大阪の深夜放送の先頭を走って行ったこと。そして朝のラジオ、毎日放送「ありがとう浜村淳です」を開始してから30年間のこと。著者の回想はそのまま、大阪のラジオ放送史の貴重な証言である。
特に、昭和30年代の東京と大阪の断絶というものの深さに関して、著者の回想は実に貴重だと言える。現在の大阪の芸人が東京に進出しても、言葉の壁は打ち破られている。しかし、当時は「関西弁」だけで拒否されたのである。したがって著者も標準語で司会をしていたのだ。現在の関西弁イントネーションによる司会は、京都に帰ってきてから、独自性を出すために編み出したものなのである。
できれば、著者が関わったラジオ番組の一覧など、資料がもう少し充実していたらと思う。もっとも、大阪の小さな出版社が編集したものであるから、編集者の力だけではそのようなものをつけるのはいろいろと難しかったのかもしれない。それをわかった上で、書く。これだけの貴重な証言なのだから、後世のためにこのような種類の本にはきちっとした資料がほしいのである。
(2003年12月7日読了)