現在実施されている「ゆとり教育」は、逆に学力低下をもたらしていると論争にまでなっている。では、その「ゆとり教育」は、どのような時代背景から生まれてきたものなのか。そして、この教育がもたらす未来はどんな姿なのか。著者は、時代の流れを追いながら、それを明らかにしようとしていく。
1980年代半ば、日本が貿易黒字に沸いていたころ、イギリスとアメリカでは貿易赤字を解消するために、人材育成の重要性を説く潮流が主流となった。日本式の学力偏重教育を実施したのだ。そして、日本に対しては内需拡大と貿易黒字の解消を要求していく。その結果、当時の中曽根首相は「臨時教育審議会」を立ち上げ、ポストモダン時代に即した教育課程の方針を作るように要求した。そこから、「知識・技術の習得」から「興味・関心の育成」に教育目標が変わるという、まさに革命的な転換が提起された。バブル景気の時代を経て、現在は情報消費の時代になった。感情に訴えるサービス業が発達し、動物化した欲求に応える、システム化されたサービス・システムが整備された。そこに、「個性」を強く打ち出した「ゆとり教育」を受けた人間が入り込んだらどうなるか。そこには、「オタク」文化に代表される多重人格化した人間たちが「個性」を浪費する社会が待っているだけなのではないか。
著者の主張を簡単にまとめるとこうなる。現状分析や未来予測に関しては、東浩紀の「動物化するポストモダン」をまるのみして自分自身で「オタク」を検証していないようなところなど、ひっかかる部分も多く、サブカルチャーをかなり否定的に見る姿勢にも疑問符はつく。
とはいえ、「ゆとり教育」誕生に至る過程を説き起こした部分などは、私自身の「ゆとり教育」や「総合学習」への疑問点をかなり解消してくれるものであったし、中曽根首相が行った「戦後政治の総決算」が現在にどう影響を与えているか、それが明らかになっているところも興味深く読めた。
新語や造語をふんだんに取り入れているが、いささか消化不良な点もあり、著者の主張がすぐには見えにくいという難点もあるが、「ゆとり教育」に対する解説書としては一定の役割を果たしている。そこから出てくる結論は、かなり恣意的に悲観したものになっているのが気にはかかるが。
(2004年1月20日読了)