人間は本当に「自由」なのか。本書は、人間社会が生み出してきた「自由」の概念を再検証し、「人間性」とは何か、「主体性」とはどういうことかを問い直すものである。
著者は、人間そのものが「社会」「文明」「言語」などの枠によって生み育てられるという事実から、人が真にそれらから「自由」にはなれないと主張する。そして、現代人、特に西洋思想がすぐに結果を追い求めようとし、レッテルを貼ろうとすることに対し、警鐘を鳴らす。本書で著者は「ゆとり教育」が「主体的に考える力」を学校という枠の中で「教え込む」という矛盾を指摘する。本人が「主体的」に選んだと思い込むように導くことも十分に可能なのだ、と。
そういう意味では本書は構造主義的な認識論の上に成り立つものだといえる。著者は哲学的に「自由」を論じると本書の冒頭で宣言しているが、西洋哲学は構造主義とは基本的には相容れないものである以上、私には本書は「哲学」的に書かれているようには感じられない。哲学が人間の主体性を追究する学問であるとすれば、その「主体性」を疑う本書は「哲学」からは離れたものにならざるを得ないのではないかと思うのである。
つまり本書は構造主義的な観点から「主体性を育てる教育」の限界を指し示したものだと、私には読み取れるのだ。ただ、「主体性を育てる」という発想が必ずしも近代的な思想の中から生まれてきたとはいえないわけで、ひとつ間違えると著者の批判は的外れなものにもなりかねない危険性をはらんでいるといえるだろう。
私としては、こういった実存と構造のせめぎ合いでは、「主体性」の問題は解決しないように感じられる。そういう意味では、本書における思考の模索も新しいものを生み出すきっかけにはなりにくいのではないだろうか。「気短になるな」という結論には共感するのだけれど。それはどちらかというと東洋思想の文脈で語りたい気もするのだが。
(2004年1月25日読了)