本書は日露戦争の前後の出版社、新聞社、文人たちの様子を活写し、時代の空気というものがどのようにして醸成されていくかを示したものである。日露決戦を煽り立てる新聞社、逆に「露探(ロシアのスパイの意)」と決めつけられた新聞社と主筆、ポーツマス条約に一方的に批判をした新聞社、戦争前に次々と架空戦記を発表し「正義」の尺度を形作っていった出版社と作家たち。反戦詩を作った与謝野晶子は、実は大町桂月の批判に対し「反戦の意図はない」と弁明していたという事実などは、その詩が教科書に「反戦論の代表」として必ずとりあげられているという事実から見ると、意外にも思える。とはいえ、反戦論をかかげた「平民新聞」は官憲の弾圧など全くかかっていなかったりする。
本書で示される事実は、メディアによる世論形成というような生易しい現象ではなく、世論がメディアをあおり、メディアが世論をあおるという相乗効果の恐ろしさを教えてくれる。そして、当時の政府と民衆が持つ「戦争」への意識の違いをはっきりと示すことにより、時として民衆は政府よりも過激な存在になり得るという事実を明らかにする。
報道は事実である必要はなく、民衆を喜ばせる材料に過ぎないのか。事実、あるいは真実よりも、人々は自分の好む虚構を求めるものなのか。新聞社の戦争責任が問われることがあるが、広告を、そして部数を増やすためには読者が喜ぶ記事を書く必要があったのかもしれない。そう考えると、戦時中に各新聞が戦意を高揚させるような記事を書いたのも、それを民衆が求めていたからだと言えなくもないだろう。新聞がラジオ、テレビにそしてネット上の情報に変化したとしても、ことの本質は日露戦争の時とたいして変わっていないのではないか。
著者が様々な文献を駆使して再現した当時の状況は、現代の情報産業に対する警鐘なのである。
(2004年1月28日読了)