遣隋使の小野妹子は戦慄した。聖徳太子から隋の煬帝に送られた書状には「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す」と書かれていたからだ。大帝国の皇帝にこのような挑戦的な書状を送って無事なわけはない。果たして聖徳太子の真意はどこにあるのか。隋の琉球、高句麗侵略の場に心ならずも立ち合うことになり、戦いに巻き込まれる外交官小野妹子の視点を通し、聖徳太子と煬帝の戦いが描き出される。神出鬼没にして、自らをイエス・キリストになぞらえる聖徳太子こと厩戸皇子の特異な能力とは。隋を手玉にとる聖徳太子の作戦とは……。
本書では、聖徳太子は奇人として描かれる。正式な呼称である「聡耳皇子」から、作者は聴覚が非常に発達したために人間の愚かさを知り尽くさずにはおられないという新たな聖徳太子像が提示される。ここまで思い切った設定にできるというのが古代史小説の魅力かもしれない。
本書が斬新である点は、その当時の大和王朝と朝鮮半島の関係の描き方にある。作者は、朝鮮より渡来した人々によって築かれる大和王朝の国際色豊かなところをきっちりと書き込んでいく。そして、大帝国である隋と周辺の小国の関係についても、かなりシビアなとらえ方をしている。この舞台設定があってこそ、高句麗軍と隋の大軍の熾烈な戦いがリアリティを帯びるのである。
とはいえ、ここまで大胆な展開にしていいものか、とも思う。本書では聖徳太子はほとんど都におらず、その生涯を外国で過ごしてしまったことになってしまうからだ。都には替え玉を残しているから大丈夫だと太子に言わせてはいるが、摂政が替え玉ではいくら蘇我氏が朝廷を支配していた時代だからといっても政務に障りがあるだろう。面白いのだけれど、無理がある。そして、その無理をねじ伏せるほどの説得力はない。本書の弱点はそこにあるのではないだろうか。もっとも、作者は無理を承知で聖徳太子にこのような活躍をさせたのだろうとは思うけれども。
ところで、作者は前作の「諸葛孔明対卑弥呼」に続く新解釈古代史を発表したことになるわけで、どうやら作者の書きたかったのは小松左京賞受賞作とは実はかなり違うものであったということか明らかになってきた。前作の場合、第2作目ということで作風のバリエーションが広いというように受け止めたのだが、3作目の本書がこの路線であるということは、作者の方向性がはっきりしたということにもなる。それがいけないとはいわないけれども、次回は小松左京賞作品に連なる系統のものを読んでみたいとも思うのである。
(2004年2月11日読了)