半陰陽ということで老僧の慰みものになっていた少年、そしてせっかく授かった子どもを人間に殺された狗神が、互いの恨みの心から結びつき、怪物となって成長した。怨の一念で僧としてその地位を上げていった少年は、大僧正隆光として徳川幕府五代将軍綱吉の信を得、幕府を影で操るまでになる。彼は綱吉の大奥で室の一人牧の方と交わり、自分の子を宿させることに成功する。その子どもが生まれた暁には外王として日本に君臨させようともくろむ。そのためには幕府成立当時に天海僧正が江戸を守るために張り巡らした結界を崩壊させ、闇の力を子どもに注ぎ込む必要がある。この邪悪な計画を知った水戸の徳川光圀は、熊野に佐々介三郎を派遣して、修験者の束ねである八咫鴉に助力を請う。八咫鴉、そして不遇の親王、那智が怪人隆光と対決するために熊野を発つ!
かの「生類憐みの法」の発案者である隆光を狗神と同化した怪人とするというアイデアが面白い。これにより、なぜ「生類憐み」という発想が出てきたかという謎の真の理由が激しい戦いの原因となるからだ。
また、熊野の八咫鴉の手兵も、巫女として育てられた処女5名と天皇の隠された皇子という清らかさを強調するもので、これにより闇と光のコントラストが強まっている。
ただ、邪悪な存在である隆光とその配下の日雲、月雲らの所業が、いかに陰惨に描かれていていても、なぜかその邪悪さがあまり強く感じられないのだ。それは隆光の哀しい生い立ちに由来するものなのか、それとも作者がそういった残虐なシーンを書くことが不得手なのか。私は後者のように思われてならないのだが。
元禄時代というと、赤穂浪士の討ち入りあり、絵島生島の情事ありと事件には事欠かない。しかも、この時代を舞台とした伝奇小説の傑作に朝松健の「元禄妖異伝」「元禄百足盗」「妖臣蔵」の三部作がある。現時点ではこの傑作の域にまで到達するにはまだ何かが足りないように思われる。
山田風太郎忍法帖のような線を狙っているようなので、そこらあたりの虚無的なムードや奇想天外な呪法が次巻以降大量に登場していけば面白さも高まっていくことだろう。徹底した大ボラをどこまで吹くことができるか、そこが勝負となるだろう。
(2004年4月25日読了)