本書は教育論ではなく、人間関係論、コミュニケーション論である。
テキストは誤読されるためにあり、人間関係は誤解の上に成立する。真に理解され得る事物はない。だから、例えば「理想の教師」は、求めても得られるのではない。そんなものはいないのである。ただ、生徒が「この人は自分の理想の教師だ」「この人こそ恩師だ」と思うことにより、「師弟関係」は成立する。教師がただ単に一定の知識を与えるだけの役割であるならば、そのような教師とは「師弟関係」は結び得ない。そこにあるのは「取り引き」のみである。そうではなく、教師が何気なくいった一言からでも生徒が自分で考え、そしてそこから学んでいくことができれば、そこに「師弟関係」が生じるのだ。コミュニケーションとは、その結果を求めるものではなく、コミュニケーションそのものを求めるから成立するものなのだ。
かいつまんでいうと、上記のような内容なのであるが、ここには「学習」の本質が含まれている。それは、学校での学習だけではなく、生活全般における「学習」である。とんでもない人間からでも、人はその気になれば何らかを学び得る。また、人と話をする時、相手のことがわからないから、会話は続く。わかろう、もっと知りたいとする意欲が会話を続けさせるのである。わかってしまったら、そこでその相手との関係は断ち切られてしまうのである。
教師などという仕事をしていると、生徒に対して全てを理解させたいなどということは不可能であるということは、まあだいたいわかっている。わかっているけれど、それを言ったらおしまいなのではないかという恐れを抱いたりもする。しかし、本書を読むと、恐れることはないと勇気づけられる。わからせようとするのではなく、知りたいと思わせるようにし向ける。もっとも、それもまた非常に難しいことではあるのだけれど。そうやね、もう少し「わけのわらん先生」になってみようかな。
(2005年1月29日読了)