禅僧である則道は、予言をする「おがみや」ウメの死に立ち合う。ウメは自分の死ぬ日を予言して、その通りに逝ってしまう。最初に予言した日には蘇生を成功させられた医師も、2度目の予言の日には手の尽くしようがなかった。則道は妻の圭子から「人は死んだらどうなんの?」と問われる。禅的な発想は実は即物的なもので、圭子はその答えにはやや不満が残る。出入りの石屋の徳さんがしたという宗教的体験をたずねに、二人は徳さん夫婦が経営しているという風呂屋に行く。徳さんの受けた宗教的体験は、修行時代に則道も遭遇したものと同質のもので会った。禅では、それを超えたところに悟りがあるのだが、さりとて徳さんに対して則道はそれを否定もしきれない。圭子は則道に、4年前に流産した子どもの供養を願い出る。
主人公と同じ禅僧である作者は、われわれよりもはるかに多く「生と死」について考える機会が多かろう。作者はそれをありきたりな説教にとどめておくことができず、小説として問いかけ、考え、答えを出そうとしたのではなかろうか。妻の問いに対して必死になって説明をする主人公、成仏ということに強い関心を示す妻、新興宗教にありがちな法悦体験を無邪気に信じ、語る男。いろいろな形で「生と死」に向き合おうとする人々の姿を描くことにより、明確な答など何になるのかという著者の主張が伝わってくる。
同時収録の短編「朝顔の音」は、主人公を一般の女生にし、2度も生まれたばかりの子どもが死ぬのを防ぐことができなかったという体験、生まれて初めて自分から男を好きになるという体験などを通じて、また違った「生と死」へのアプローチを試みている。
表題作は第125回芥川賞作品である。「生と死」という哲学的なテーマを、人間の営みという視点から描いたところが評価されたのだろう。
そう、「生と死」という問題に対して、高みに立った物言いをしていたのでは、その本質は見えてこないのだろう。なぜならば、「生と死」は、自分自身の一番近いところに常に存在する問題なのだから。
(2005年2月8日読了)