日本の桜の8割を占めるというソメイヨシノ。その特徴は、継木をして増やすこと、実はほとんどならないこと、生長が早く10年ほどで成木になること、開花期間がほぼ同時期で、1週間ほどで一斉に散ることなどがあげられる。このソメイヨシノは幕末に江戸の染井で掛け合わされて創られた新種であり、在来種であるヤマザクラやヒガンザクラ、オオシマザクラなどはそれぞれ咲く時期も違い、かつ成木になるには20年はかかる。ただし、ソメイヨシノのように早く枯死することはなく、樹齢は長い。
現在、我々は「桜」というと、ソメイヨシノを想起する。たとえ奈良時代の和歌にヤマザクラが詠まれていたとしても、その和歌から想起されるイメージはソメイヨシノのものになってしまっている。
なぜソメイヨシノは明治以降、特に第二次大戦後、爆発的に日本中に広がったのか。そして、いつから「桜」が日本の花として私たちの意識に強く刷り込まれるようになったのか。本書は、数多くの文献などをもとにソメイヨシノが日本中に広がるきっかけになった理由は何なのか、いつから日本人の心性をソメイヨシノに仮託するようになったのかを解き明かしていく。
それは、ソメイヨシノが効率良く生長し、安価で大量に苗木を生産できるところから、戦後新たに作られた公園や公共施設に利用されやすかったことと、敗戦で失われた国家のアイデンティティーを桜に託したということではないかと、著者は考える。その傍証は細密に行われ、説得力を持つ。
また、ソメイヨシノを人工的だとして嫌う根拠に、戦前の「日本の正統的な系譜」を重んじるために「本当の桜はヤマザクラ」だという決めつけがなされたことをあげる。
私たちは、「桜」という植物に、日本の文化やアイデンティティーを託してしまった。しかし、そのためには数多くの伝説が作られ、ソメイヨシノそのものに「物語」を作ってしまったと、著者は書く。花も、見る人がいなければ、それは植物の生殖の一手段でしかない。そして、「桜」は多くの人々に見られることによって、人間の視点から語られる存在になっていったのである。
「桜」という植物をモチーフに、著者は、日本文化そのものを語ろうとしているのである。そして、「桜」と日本文化の間にある分ち難い関係を読み手に提示していく。その明解な分析には思わず私は納得した。
そして、そうだからこそ著者はいう。
「ソメイヨシノはそれでも美しいのだ」、と。
(2005年4月14日読了)