現代社会の抱える問題点を、「祭」をキーワードに読み解く作業である。ここでの「祭」は、ネットなどで発生するイベントと、またそれと同質のものをさす。データベース化した現代人は、他者との持続的な関係性で自己を客観的に見つめ、アイデンティティを形成するというわけにはいかないと、著者は断じている。例えば、場面に応じて自己の「キャラ」を使い分けるという作業ひとつとっても、自分というものをデータベース化し、自己を自分の監視下におくのである。だから、人は常に「自分のやりたいこと」を探し、それを見つけると躁状態に近い感情で燃え尽きてしまい、その状態が過ぎると鬱状態におちいってしまう。
そこにはもはやイデオロギーは存在せず、ナショナリズムもまた一過性のものとしてとらえねばなるまい。自分の行動は何かしら合理的な理由をつけて正当化するのであるが、そこには一貫したものはもはや必要ではなくなるのである。
と、いうのが私の当面の理解である。確かに「自分のやりたいこと」は何か、それについ縛られてしまうという場面に遭遇することは多い。生きがいだのやりがいだの思い出作りだの生きざまだのという言葉が無反省に飛び交う現状というものになにかしら違和感を抱くこともままある。説教じみたポップス歌謡に「感動」する若者たちや、何かを応援している自分を他者にアピールするかのようなポーズや、「感動」を強制するテレビ番組にやすやすと乗ってしまう人々の存在に対し、個別にそれぞれ批判を加えたりすることはしょっちゅうである。
しかし、本書で提示された概念は、著者が意識して抽象化しているせいもあるけれども、まだ確証できるようには感じられない部分もあると思う。社会学というものの持つ物事を形式化したがるという性質が著者の論説を助長しているようにも感じられる。論理的な整合性はあっても、説得力を持つに至っているかどうか。ここらあたりは著者の「若さ」があらわれているところかもしれない。そういう意味では、本書には「若書き」という印象が残る。したがって、今後、著者がこの論説をどう普遍化し、また深めていくか。その立脚点にあたる論説であると考えていいだろう。
(2005年6月11日読了)