「教養」とは何か。著者は、戦前の「一高」的教養から説き起こし、いわゆる知的エリートたちの考える教養主義や、それらから外れたところで登場してくるジャーナリズム的教養、そして「教養」が最後にブームとなった1980年代の「ニューアカ」的な「教養」の流れを明らかにする。そして、その「教養」が不要となってしまう現在の状況について解明していくのである。
それは、知的エリートたちの「きみたちはどう生きるか」という問いかけに対する回答を探すためのものであったわけだし、ただ受験勉強ができるだけではないということを証明したいかれらの安全弁でもあった。また、実学が第一であるという日本的な「大学」のあり方に対する反論でもあった。
私は、教養というのは、もう少しおくゆかしいもの、つまりその人間の思考の土台をなすものととらえていた。ちょっとしたことでも、教養のある人間から発せられる言葉には、様々な知識の蓄積があり、その言動に奥行きをあたえるようなものと定義していたのである。
だが、それはアカデミズムとは無縁の人間の定義であり、アカデミズムのただなかにある著者の考える「教養」とはかなりかけ離れたものであると、本書によって知らされた。
ここでの「教養」はかなり俗物的なものであり、知的エリートたちの肥大した自我を支えるものでしかない。だからこそ著者は本書のタイトルを「グロテスクな教養」としたのだろう。著者はそういう「教養」を否定したいとは思ってはおらず、逆に「教養」の復権を願っていることがわかる。
その良し悪しにかかわらず、一定の「教養」は健在であってほしいし、それが私のような凡俗の徒の手に届かないところにありがたく鎮座ましましてくれれば、知ったかぶりの大馬鹿者に、その思い上がりをたしなめてくれるような存在があるだけで、私のような人間でも、ずいぶんと謙虚にもなれるというものである。
(2005年6月25日読了)