読書感想文


ある漂流者のはなし
吉岡忍著
ちくまプリマー新書
2005年6月10日第1刷
定価760円

 武智三繁……2001年に、長崎の崎戸島から九州を南下して大平洋を漂流、37日後に発見されて奇跡の生還をした男である。著者は武智氏から詳細な聞き取りをし、孤独と飢えと渇きの中で一人の人間がある境地に達した様子を忠実に再現してみせた。ドラマティックに描こうと思えばできただろうが、著者はそうはしなかった。時間の感覚も空間の把握も全てなくしてしまったような状況で一人の人間が何を考えたのかを淡々と描写する。
 武智氏は言う。「人間て、なかなか死なないものだ」と。死んでしまうと何度も感じながら、それでも彼は生き続けたのである。何のために生き続けたのか。それは、まだ死んでいなかったから生き続けたのだとしかいいようがない。自分の尿を飲んでまでして生き続けた。そんな人物の本当の心境は、おそらく私たちには理解し得ないものなのだろう。
 そして、興味深いのは、彼が神秘体験もせず、何かの教祖みたいな存在にもならず、再び市井の人に戻っていけたところだ。漂流期間中のことを思い出しても、まるで他人事だとさえ言う。極限状態に置かれ、リアルなものとは何なのかを実感した時、人は幻想を抱けなくなるのだろうか。
 ですます調とである調が変な具合に混じって読みにくい部分はある。大人向けに書いたものを、さらに取材を重ねた上で青少年向けに書き改めたからなのだろう。そういった点を差し引いても、本書は事実の持つ重みをずっしりと感じさせてくれる好著である。
 生きているから、生き続ける。感動などという言葉を通り越した凄味が、本書からは伝わってくるのである。

(2005年6月30日読了)


目次に戻る

ホームページに戻る