俺は筧井宏。ヒマラヤにあこがれ、ネパールまでやってきた。そこで俺が出会ったのはヒッピーじみたクライマーのマックスだ。彼はデリーで待っているという謎の言葉を残して俺の目の前から去る。それきり彼のことは忘れていたが、登山の後、偶然が重なってデリーに着いた時に、彼のことを思い出した。メモを頼りにホテルをたずねた俺を待っていたのは日本人のクライマー、加藤由紀だった。マックスは、彼女とイギリス人のジョージ、デニスの混成隊でヴァジュラカン峰への登攀を計画していたのだ。運命に引き寄せられるように、俺たちはヴァジュラカン北壁への登攀を開始する。マックスの吸うパイプの煙に包まれた俺は、ジャンクション・ピークで遭難するクライマーの経験を体感する。それは未来の経験なのか。登山直前から不思議に興奮し、ジョージと対立を繰り返し、冷静さを欠く由紀。彼女は、何かに憑かれたように無理な登攀を続ける。登攀の途中、俺は自分が体感した遭難が、イギリス隊を襲うものであることを確信する。そして、由紀もまたその巫女的な体質から、そのことを確信していたのだ。俺たちは極限状態の中、イギリス隊を襲う悲劇を未然に防ごうとするが……。
ヒマラヤ登山という極限状況における人間の心理を、運命論的に描き出す。山を舞台にした幻想小説といえなくもないが、それよりも、こうした極限状況では、合理的で冷静な考え方をした上で、さらにその上部に人間があらがうことのできないなにものかが存在すると実感するということを表現した本格的な山岳小説だといえるのではないだろうか。
とにかく、登攀中の吹雪の描写など、息詰まる思いがする。真夏の炎暑の中で読んだのだけれど、思わず襟元をすぼめるような「寒さ」を感じた。小説におけるリアリズムというのは、こういう性質のものなのではないかと思う。それは、作者の他の山岳小説でも、あるいは宇宙小説でも、架空戦記でも、常に感じるものである。そこまでのリアリズムの上に構築された虚構というものは、事実以上に真実味を帯びる。
人は運命というものに導かれて生かされているのではないかと、本書を読了した直後には素直に信じてしまいそうになる。人間の生は偶然の産物か運命の必然か。私は偶然が積み重なったものだと考えるのだが、そういう考え方を根底から崩してしまうだけの力を持った作品なのである。
(2005年8月2日読了)