読書感想文


哲学的落語家!
平岡正明著
筑摩書房
2005年9月20日第1刷
定価2200円

 アナーキーな評論活動を続ける著者による桂枝雀落語論である。とはいえ、著者は枝雀の高座を生で聞いたりはしていない。著者が落語に目覚めたのはごく最近のことだそうで、枝雀落語と出会ったのはその死後なのである。したがって、著者が論じる枝雀落語はCDもしくはDVDなど、残された録音や映像だけなのだ。もっとも、枝雀師匠が生きていてその高座に生で接する機会があっても、内容的にはそれほど変わったものにはなっていなかったのではないかと思う。
 著者は落語のテキストを読み解く作業と、そのテキストから直感的に得たものを、夢野久作やら有明夏夫やら梁石日やらジャズやら前衛音楽やら筒井康隆やら様々なものに照らし合わせ、枝雀落語が内包するものをあぶりだしていこうとするからである。
 そこに違和感を覚えるところもある。恣意的に肝心なものを省いたとしか思えない部分があるのだ。SR(ショート・ラクゴ)になぜ触れていないのか。それこそ枝雀の哲学的落語家のエキスがつまったものではないのか。CD「桂枝雀落語大全」よりの引用も多いから、評論をする上で全てに耳を通したりしていてもおかしくはないのに。
 なぜだろうと考え、そして気がついた。著者は結局自分の内面について語りたいのではないのか。枝雀落語から自分の思考にフィットしたものを選び出しているのではないだろうか。だから、落語を論じているかと思うと「ドグラ・マグラ」の解釈に話が飛び火し、そこが眼目かと思うと落語について思い出したように話を戻したりする。
 そういう意味では、本書は落語論でも落語家論でも桂枝雀論でもないのかもしれない。平岡正明的なるものを枝雀落語の中から抽出した、アナーキズム論なのだろうと、私には思われてならない。
 だからこそ、枝雀落語のこれまで気づかなかった一面の発見みたいな面白さはあるのである。ただ、著者の分析していることは、枝雀落語に触れた場合直感的に読み取ることのできるものであるようにも思う。今さらそれを言われてもなあ、という思いを随所で抱いた。
 評論というのは別に客観的である必要はないと思うし、徹底的に我田引水を通した本書などは評論として「正しい」あり方のものであると感じる。
 本書は「藝」に対する評論ではない。枝雀の残したテキストをモチーフにした文学論である。枝雀落語を聞きながら「これだこれだ」と面白がっている作者の姿が想像されるし、そのことを他者になんとかし伝えたいという気持ちもわかる。ただ、本書を読んで枝雀落語のCDをひっぱりだそうというところまで私はいかなかった。どうも面白さを感じている部分が私と著者とでは違うようなのである。

(2005年10月18日読了)


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