友人とはなんだろうか。友情とはなんだろうか。本書は古今の哲学者が考察した「友人」論をもとに、友人という概念を明らかにし、友情そのものに対して疑念を突きつけるものである。
アリストテレスが「友愛」と呼んだ人間関係は、ギリシアのポリス時代のように社会の中で自分の立つ位置がはっきりとしており社会が求める人間関係と個人の求める友情というものが一致しているからこそ成立する。それ以後、モンテーニュが友人を「自分の分身的存在」と定義づけ、友人と呼べるような存在は1個人に1人だけだという濃密でしかも個人的な感覚で友情をとらえ直すまで、アリストテレスのたてた前提をくつがえすことはできなかった。
ルソーは友人を自分より不幸なものと定義づけ、友情をその相手への憐れみの感情とした。彼のとなえる友情が革命にとりいれられると、その友情は社会的欲求と一致するものとみなされ、「同志」という言葉で全ての者をつなぐ全体主義的な傾向を導く。
社会が要求するものが「ボランティア」であったりする現代、社会的欲求が必要とする友情は「友情の強要」すなわち全体主義的な方向へ進むのではないかと著者は危惧する。
私の理解力が不足しているせいか、いくぶんわかりにくいところはあるけれど、例えば学生という極めて狭い世界で生きている者たちが「級友」という関係を結びやすくなる理由はよくわかった。「学級」という集団が例えばクラス対抗で何かする場合、全員の目的は一致しやすい。この狭い社会の要求する人間関係は、「友人」というものを生むのだろう。個別の利害を超えた関係が友人であるとした場合、であるとしたら。
ばくぜんととらえていた「友人」「友情」について明晰な定義づけを行った上で、著者は「友情」に対し否定的な態度をとる。その姿勢にはある程度共感もするのだけれど、そこにいたるまでの説得力がいくぶん弱いように思われる。
しかし、気軽に口に出してしまう「友だち」「友人」「友情」についてこのような形でアプローチしたものはほとんどないだろう。そんな試みをしたというところに本書の価値もあると思われるのだ。
(2005年10月21日読了)