著者の少年時代をモデルにとった、自伝的小説。
両国の和菓子屋の息子である〈ぼく〉は国民学校の6年生で、お上の政策により、希望してもいないのに弟とともに学校ぐるみで埼玉の山寺に集団疎開させられる。学校に通っていた時にはわからなかった友だちの人間性があらわになりいじめられたり、食べるものがなくなって苦しんだりする。集団生活になじまない〈ぼく〉は疎開期間の終了を待つ。やっと明日は懐かしい東京に帰れるというその日に、東京大空襲があり、帰宅は延期となってしまった。友だちが次々と生きのびた親に引き取られていく中で、〈ぼく〉の親からの連絡はない。それでも生きているという情報を得て待っていると、やっと父が〈ぼく〉たち兄弟を引き取りにきた。しかし、帰る家は東京ではなかった。縁故疎開で家族ぐるみ新潟の遠い親戚の家に間借りすることになっていたのだ。そして敗戦。田舎暮らしにも慣れたものの、〈ぼく〉は一日も早く東京に帰りたい。親戚の家にはもうやっかいになれない期限がきたが、父は東京に帰りたがらない。〈ぼく〉は東京の学校に進学したいと親に申し出るが……。
戦時中に集団疎開という特殊な状況下に置かれた少年たちのありさまや、終戦直後に縁故疎開で田舎暮しを強いられた家族のきしみなどが、淡々とした筆致で描かれる。そういった事実の積み重ねの描写が、じんわりと腹にこたえる重みや痛みとなって私にのしかかってくるような思いがした。
ここで描かれる戦時下の少年の姿は、紋切り型の軍国少年でもなければ、地方の子どもにいじめられるという図式でもない。疎開にも少国民にもそれぞれいろいろな姿があったのだということを、記憶がはっきりしている間に書き残しておこうという作者の思いが伝わってくる。
ここで描かれるのは、特殊な状況下の少年の姿というだけではない。長期にわたる集団生活や、家を失った家族ならば、どの時代であっても見い出すことのできるような、醜くも哀しい人間の本性であるように思われる。それが、自伝的な小説ということで、よりリアルにその姿をあらわしているのだ。
また、本書では「自分の居場所」ということを考えさせられる。主人公は本来自分のいるべき場所から引き離され、さらに自分のもともとの居場所は戦火で焼き払われ、常に借りの宿で過ごしている。「自分の居場所」に帰りたいという思いを常に抱えながら生きていき、それが極限に達していく様子が描かれているのである。そして、彼が「自分の居場所」にぶじ帰りついたとしても、その場所は戦後十数年で一気に別の物に作り替えられてしまうことを、史実として私たちは知っている。だからこそ、主人公の望郷の念は、よけいに寂しく感じられてしまうのである。
(2005年12月19日読了)