遊行僧一休が淀川河口で出会った老人は、室町幕府六代将軍足利義教から追放され絶望の淵にあった申楽師世阿弥であった。渡し船に乗りそこねた二人は、問わず語りにそれぞれの来し方を話し出す。後小松天皇の皇子として産まれながら寺に入れられ、純粋禅を極めようとする一休。三代将軍足利義満の寵愛を受け、能の世界を極めようとする世阿弥。二人の煩悩を試すように、妖しき渡し船が彼らを幻の遊廓に誘い出す。そこにいたのは大樹太夫と地獄太夫という花魁であった。平安末期に栄えた江口・神崎の遊里、暁蛍楼が、時代を超えて彼らの前に出現したのである。彼らの記憶はうつつとなり、太夫たちは彼らの心の奥に潜んでいた愛する者の姿に変化する。夢幻の境で彼らがたどりついた境地とは……。
作者のライフワークでもある一休シリーズの番外編である。版元も版型も変えているところに、通常のシリーズとは違うものであるという意図が見える。
ここでの一休は戦う隠密ではない。彼の生い立ちや修行時代のエピソードを語らせることにより、人間としての深みをだそうとしているというように読める。しかも、同時代の大物である世阿弥と一休をからませることにより、禅の道と芸の道が交差する瞬間というものを切り出そうという試みでもあるだろう。
その意図は十分に果たせていると思う。ただ、作者の作風は少しばかり理が情を上回る傾向があり、幽玄というものをなんとか小説という形で描き出そうとしているのだが、いくぶん作為的な匂いを嗅ぎとってしまう。無理なくその世界を小説化する達人に赤江瀑がいるが、赤江瀑は狂気を自然に描き出すことができる作家なのである。もちろん同じことを作者に要求するわけではないけれど、そのような狂気を描き出すのはかなり難しいことだと思わずにはいられなかった。
作者の伝奇小説には、やはり該博な知識を駆使して巨大な世界のしくみをあぶり出すという要素がないと、と感じた次第である。
(2006年2月16日読了)