飛鳥時代に馬子・蝦夷・入鹿の三代にわたって権勢をふるいながらもいわゆる「大化の改新」クーデターで一気にその権力を失ってしまった蘇我氏。聖徳太子が賞賛されると、必ず悪役にまわる蘇我氏。だが、本来弱小豪族であった蘇我氏が蘇我稲目の代で一気に朝廷の中枢にかけのぼったのはなぜか、強大な権力を一瞬にして失ってしまったのはなぜか。通説では説明できないその秘密を、気鋭の歴史学者が文献を綿密に検証し、説得力のある説をたてる。
蘇我氏は渡来系の豪族ではなかったが、渡来人の能力を適材適所に生かす術にたけていた。さらに、常に開明的な考え方をする一族であり、仏教を信仰したのも東アジアにおいて大和朝廷が孤立しないでいるためにはどうすればよいかというところを常ににらんでの事でもあった。名族でないために、政権の中枢にはいると天皇の力を利用しながら官僚制度を充実させ、その頂点に立つことによって比類ない勢力を手に入れることができた。しかし、土地や私兵は他の有力豪族と比べてもそれほど強くなく、氏族としての土台は意外に脆弱であった。だから、一族の蘇我倉山田石川麻呂がクーデター勢力についてしまい、トップの入鹿が暗殺され、蘇我氏の作った官僚制度をそのまま中大兄皇子たちに「横取り」されると、蘇我宗家には頼れるものはなくなってしまったのである。
日本書紀の記述を基本的には事実として読み込み、そこから真実を見い出していく著者の分析力は見事というほかない。しかも、異説に対して加える批判も決して攻撃的なものではなく、冷静で客観性のあるところに好感がもてた。
著者が蘇我氏に対して肯定的な立場に立つようになった理由の一つに松本清張の「清張通史」に書かれた解釈があるという。普通、専門家はこうした作家の「推理」を門外漢のものとして軽視するところがあるように思うのだが、立場に関係なく様々な解釈を柔軟的に取り入れる姿勢があるのが好ましい。ただし、「蘇我馬子は天皇だった」というような飛躍した説に対しては毅然とした姿勢で臨んでいる。
蘇我氏が歴史上果たしてきた役割は、ことによると聖徳太子の業績よりも大きく意味があるのではないかという著者の考え方に対しては、私も同感である。一時、私なりに古代史に関する本を読みあさったのだが、蘇我氏については納得のいく論説があまりなかったことを記憶している。本書は、その時からの私の疑問に真っ向からこたえてくれた。
古代史に関心のある方にお薦めしたい。
(2006年3月20日読了)