2005年の総選挙ではマスメディアで「刺客」「小泉劇場」といった言葉が飛び交い、自由民主党の圧勝に終った。その勝因の分析で、マスメディアの責任が問われたりもした。著者は自民党が圧倒的な勝利を得た直前直後に新聞や雑誌で様々な言論人が書いた文章を引用し、「右翼」も「左翼」もその結果に対して戸惑いを見せていることを指摘し、「大衆」というものの変容を分析する。
著者の分析では、現代社会は「ポストモダン社会」に突入しており、権力者に対する「大衆」のスタンスは対立ではなく水平になってしまっているということになる。「大衆」は権力者に票を投じることによりその権力者と同化したような幻想を抱くというのである。そして、そこに介在するのがテレビなのである。
いわゆる「小泉劇場」をプロデュースしたものはいるのか。シナリオを書いたのは誰か。テレビはそのシナリオ通りに動かされたというのか。確かに小泉首相に意図的な戦略はあっただろう。しかし、その後に起こった「ホリエモン逮捕」の際の対応はどうだったか。首相も幹事長も責任をメディアに転嫁し、メディアもその責任を負うような反応を示した。
著者は、この「小泉劇場」をプロデュースしたのはほかならぬ視聴者であると指摘する。テレビは視聴者が望むものを提供し、視聴者はテレビが提供するものを取捨選択して一定の方向に導いていく。
本書で指摘されていることには、思い当たることが多く、著者が名付けた「ぷちナショナリズム」もまた、その延長線上にあることに思いいたった。著者はそれが今度は視聴者の望むものが「スピリチュアル」という人知を超えた方向に向かっていることに対して危惧している。たとえばあるコメンテーターが江原某をインチキと一笑に付したとする。するとそのコメンテーターはおそらくはかなり強いバッシングにさらされることになるだろう。そのコメンテーターは視聴者の望まない発言をし、そのようなコメンテーターの出ている番組の視聴率は下がり、テレビは「スピリチュアル」のカリスマをさらにもちあげる方向性を打ち出すことになる。
理屈の時代ではないのである。幻想と感情の時代なのである。それが端的に現れたのが「小泉劇場」だったのである。なんと恐ろしい事態であろう。
著者が本書で鳴らす警鐘は、しかし、テレビをリードする視聴者には届くまい。なぜならば、活字によって展開される理屈は、「ポストモダン社会」では過去の遺物になってしまっているのだから。
(2006年3月29日読了)