古代から現代まで、なぜユダヤ人は迫害されているのか。なぜ「ユダヤ陰謀論」なるものがまことしやかに語られるのか。著者は、ユダヤ人である思想家のレヴィナスの思想をもとに、その謎を解き明かそうとする。
理由は、明確に出せるものではない。もし明確に出せるものならば、その原因を取り除けばよいだけの事である。例えば、キリスト教徒から見たら異教徒であるから迫害されるというのは、理由にはならない。キリスト教に改宗したユダヤ人もまた、迫害の対象になることがあるからである。
迫害する側、あるいは陰謀論をとなえる側にある問題と、それを導き出したユダヤ人そのものがもつ問題が複雑にからみ合っていると、著者は考える。ユダヤ人からは優れた科学者や表現者が多く出ている。それはなぜか、と著者は問う。その理由は、ユダヤ人の家庭環境にあるのではないのか。そのようなすぐれた人材を育てるような教育が家庭でなされているのではないか。なぜそのような環境が必要なのか。それは地縁的共同体のない民族だからこそ、地縁に頼らず生きていかなければならなかったのではないか。また、ユダヤの神はユダヤ人に試練を与える神でもある。よいことをしたから神にほめられ、悪事をはたらいたから神の罰を受けるというような単純な神ではないのである。したがって、ユダヤ人は事を起こす前からすべての責任を負って生きていかなければならないのである。
この特質は、地縁的な世界に生きるヨーロッパ人にとっては愛すべき対象なのだ。しかし、愛が強ければ強いほど、憎悪もまた深くなる。その結果、何かが起こった原因を求める時に、最も愛すべきかつ最も憎むべき存在にその原因を全て負わせてしまうことになるのである。
本書は、ここまで要約してきたような単純なものでは、実はない。「わからないこと」を「わからない」ままのみこみ、出た答の一つが上記の要約であるに過ぎない。
それにしても人間というものはいかに脆弱な心の持ち主であることか。アイデンティティを確立し、あるいは保つために、最も愛するものに対して激しい憎悪を抱かなくてはならないのだ。そして、その愛するものとは、多くの場合において自分の作り出した幻想に過ぎないのである。
本書はユダヤ問題という歴史的にも社会的にも大きな問題に果敢に挑戦した記録である。そして、その挑戦は、ユダヤ問題だけではなく、人間の生き方そのものに関わってくる大きな主題にまで踏み込んでいくのである。
(2006年8月1日読了)