伊予の学生、佐伯真魚は、阿刀大足を頼って旧都奈良に行く。そこで出会ったのは阿刀赤万呂という若者である。赤万呂は画才と商才があり、真魚は彼の力を借りながら、大学にて儒学、道教、仏教を学び始める。大足の依頼で、皇太子の弟伊予親王の学友となる。赤万呂とともに様々な寺の仏像を見てまわった真魚は、烈火を背負った怒る仏像など新しい異様な仏像の存在を知る。これらは唐で現在広く信仰されている「秘密宗」の仏像だという。真魚も赤万呂も唐で学びたいという欲求を強くもつようになった。そんなおり、大足の指示で阿波に行くことになった2人は、唐にも行ける船を作る名人がさらわれた娘を追って土佐に消えたということを知る。その男の行方を探りに土佐に行った2人が見たものは……。
弘法大師空海の青年時代をミステリ冒険小説風に描く前半と、唐から帰国して仏法を広めよるために政治にも関わっていく壮年時代を綴る後半からなる二部構成。作者は特に前半に力を入れて描いている。空海という多面的な人物を描き出すために、作者は異なる資質をもった2人の若者を主人公とした。そして、空海という人物はこの2人の融合した人格であるという設定をとった。かなり野心的な挑戦なのだが、必ずしも成功しているようには、私には感じられなかった。ひとつには、2つの人格がどのように融合していったかという肝心の部分がまったく描かれていないことをあげたい。2つの人格が1人の人物に封じ込められているという設定は、伝奇SF的には非常においしいアイデアであるにも関わらず、そこのところをぼかしてしまっているのはまことにもったいない。というより、読者に対して不親切であるという気がする。
もうひとつには、赤万呂という人物の魅力は伝わってくるのだが、真魚という人物の造形が平板すぎることがあげられる。2人合わせて空海になる必然性が感じられなかったのだ。
他にも、なぜ普通使用されない「秘密宗」という用語を「密教」に対して用い続けているのかその理由がわからなかったり、登場人物に方言をしゃべらせることによりどういう効果を持たせたかったのかがわかりにくかったりと、いろいろ首をかしげる部分が見受けられる。一番読んでいてきつかったのは、作者の密教に関する理解が浅いように感じられることである。これに関しては、空海を描いた先行するいくつかの作品と比較し、自分なりに解説書や参考書などを読んで理解したものと照らし合わせ、非常に歯がゆい思いをしたのである。
空海という人物を描き出すのに、2つの人格を1つに融合するというかなりケレン味のある方法で挑戦した作者であるが、できればいちどがっぷり四つに組んだ作品を発表してから、再度ケレンで立ち向かうという方法をとってもよかったのではないか。期待して読んだ作品だけに、残念である。
(2006年8月14日読了)