伝統文化や宗教、福祉などの分野は経済学にはなじまないと思われる人も多いだろうが、社会全体が経済活動で動いている以上、これらの分野についても経済学的な考え方で解読すれば、納得のいく解読ができる。著者の主張は、「経済学的思考法」の勧めということになるだろう。
伝統文化は、序列を固定することにより、市場経済に巻き込まれない形で独自の経済活動を行うことができるようになった。仏教寺院はかつては地縁コミュニケーションの中心として場を供給してきたが、現代では人々のストレスを解決するためのものとしての需要を満たすものとなっている。だから、都市部では地縁などに頼った旧来の宗教よりも、需要を新たに満たしてくれる新興宗教が信仰の対象となるのである。いわゆる「社会的弱者」は、法律などでレッテルをはることによって弱者としての立場が固定する。しかし、その規準は時代によって変わるから、「弱者」のレッテルをはらないことによってその立場は強くなり自立への方向に向いていくのだという。
本書で気になることが数点ある。著者は経済学では「新古典主義」的なスタンスをとっているようだが、複雑化している社会で「見えざる手」にって導かれるすべての結果が誰にとっても幸福であるとは限らないだろう。あえてマルクス経済学やケインズ経済学を無視しているところに作為的なものを感じる。また、「社会的弱者」は、レッテルをはられたから「弱者」になったのではないと、私は考えている。レッテルのはられていない「弱者」も存在するし、それらが市場原理にのっとって全て自立に向かって進むことができているかというと、そうではないのではないか。著者は、「障害者自立支援法」によって、施設を利用するための応分の負担が課せられることで障害者自らが自立しようとするようになる、と説くが、障害の重い者やその家族が新たに課せられた負担を払い切れず、施設を退所して自宅にこもりきりになっているケースが増えているという事実を著者は知らないのかわざと無視しているのか。女性の能力を社会が認めることによって「社会的弱者」のイメージが崩れる一方で「女性専用車」の設置を歓迎するのは、女性が電車の中ではいまだに弱者のイメージに頼って保護されたいと思っていると、平然と書く無神経さも気になる。能力の高い女性が痴漢にあいにくいというわけでもあるまい。
私が本書を読んで感じた「経済学とは何か」とは、「どんなことでも市場原理にこじつけて解明できたと思わせる術」である。著者の意図がそこにないとしても、私にはそう読めてしまったのだ。「世の中に『弱者』はいない」と言い切ってしまえる鈍感さに危険なものを感じてしまうのは私だけであろうか。
(2006年8月23日読了)