読書感想文


われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇
工藤美代子著
日本経済新聞社
2006年7月24日第1刷
定価2200円

 昭和20年12月16日朝、近衛文麿公爵が自宅で死亡しているのが発見された。枕元には茶色の小瓶が転がっていた。服毒自殺であった。戦争犯罪人に指名され、巣鴨に出頭するようにGHQより指示され、それを拒む意味での自殺である。
 従来、近衛文麿は軍部の独走を手をこまねいて見ていたかと思うと、大政翼賛会の結成を推進するなど、日本を戦争に導いた惰弱な公家政治家であるという評価が下されることが多い人物であった。著者は、関係者の日記や最近公開された外交文書や新史料をもとに、戦後に作られた近衛像を見直すことに成功している。
 むろん、軍部、特に統制派の首魁である東条英機の開戦について果たした役割は大きい。しかし、本書ではそこに導いた役者の一人として、内大臣の木戸幸一を大きくクローズアップしている。東条英機を首相にかつぎ出したのも木戸であるし、かつては非常に近衛と密着していた木戸が開戦後は近衛の昭和天皇への上奏を阻止するなどして、近衛の停戦への活動を妨害していたことなどが明らかになる。
 さらに、日中戦争勃発の影に見えかくれするソ連や中国共産党の諜者の存在や、戦後、東京裁判の前に木戸を助け近衛をおとしめるような報告書が米国にくいこんでいたソ連のスパイによってGHQに提出されていたというような史料の掘り起こしが行われている。
 少しでも近代史に関する本を読めば、この当時の首相の権力の弱さははっきりとしている。東条英機が権力をふるえたのは、陸軍大臣、参謀総長を兼任していたからである。
 近衛が最善を尽くしたかというと、必ずしもそうではあるまい。著者は、近衛本人のもつ冷めた視線が、動くべき時に動くことができなかった理由ではないかと推測している。また、摂関家嫡流であることが、他の政治家との天皇への接し方の違いとなって現れ、昭和天皇との関係がうまく行かない場合もあったのだろうとも。
 近衛文麿に関する評伝や研究書は数多くあるが、上記のような新しい視点で見直すことにより、近衛本人だけでなく、日本全体が戦争に突き進んでいった状況を再考させてくれるという意味では、本書は大きな役割を果たしたといえるだろう。特に木戸幸一内大臣の果たした役割の大きさをこうはっきりと描いたことの意義は大きい。

(2006年8月27日読了)


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