総理大臣や政治家の靖国神社参拝についての議論が続いている中、その論議に加わるためには、靖国神社という場所そのものについてその歴史や位置付けなどを丹念にたどった本書をきっちり読む必要があると、私は感じた。
九段という場所は、山の手と下町を区切る境界線であり、そこに立てられた招魂社は、明治維新や西南戦争で亡くなった人々の魂を鎮めるためのものであったという。靖国神社と改められた後、そこに日清日露の戦いによる戦死者が加わる。特に日露戦争はそれまでの靖国神社の位置付けを大きく変える一大イベントであったことが著者の分析で明らかになる。靖国神社境内は競馬場であったり、サーカス会場であったりした。洋画家高橋由一はここに娯楽のためのパビリオンを建築する構想を抱いていたし、戦後すぐにもテーマパーク的な娯楽施設を作る計画があったのだ。
大東亜戦争は、靖国神社の性質をさらに変えた。A級戦犯の合祀も、政治的意図とは別なところで行われている。であるにもかかわらず、終戦記念日に首相が参拝することにより、靖国の位置付けがまた変わる。靖国神社にとって、8月15日は特別な日でも何でもないというのに。
関西在住の私には、靖国神社がどういう場所であるのか、原体験もないし何のイメージもわかない。本書を読んで初めて靖国神社についての知識を得たといっていい。
それよりも、著者が行った「伝統」という言葉の裏に隠された欺瞞性を剥ぎ取る作業について、私は高く評価したい。明治維新以後の近代化で、伝統なるものは一度切れてまうのである。そして、時代が新しくなった時に、意図的に「伝統」を創出するという矛盾した行為が生じてしまう。
私たちは「伝統」と呼ばれているものが本当に古来からのものであるのか、常に疑ってかかる必要がある。そうすることにより、本当の意味での「伝統」とはなにか。それを現代の私たちがどのように取捨選択していくか。本書が与える示唆は大きな意味を持つのである。
(2006年9月16日読了)