作者初の時代小説。
医者の末娘として産まれた土岐村てつは、踊りや三味線をたしなむが性格的にはおとなしい娘として育つ。万事におっとりしていた彼女22になってやっと縁談がまとまった。嫁ぎ先は曲亭馬琴の長男で医者の宗伯。てつはみちと改名させられ、瀧澤家の嫁として家内をきりもりしていく。あらゆることに対してきっちりしており歌舞音曲の嫌いな義父馬琴、癇症病みで気のきつい義母百、病弱で父に頭が上がらぬ夫のもと、常に悩みごとが絶えないみちであったが、丈夫な体と強い責任感で難事を乗り切っていく。太郎、次、幸と1男2女に恵まれたが、宗伯は病で早世し、百は馬琴とみちの仲を疑って実娘の婚家に移ってしまう。百の死後、やっと子どもの成長だけを考えればよい日がきたと思えば、盲目となってしまった馬琴の依頼で、「八犬伝」の口述筆記をすることになり……。
江戸時代の「嫁」とはどういうものであったのか。曲亭馬琴という大作家の家という特殊な環境ではあるけれど、主人公のみちそのものは同時代人として特別な生き方をしたというわけではないだろう。強いていえば「八犬伝」の口述筆記という文学史上に残る業績を残しているけれど、それとていわば妻と息子をなくし年老いた義父を助けるという意味においては、他家の嫁の役割と大きく違ったものであったわけではないのではないか。
作者は、馬琴の嫁という比較的知名度の高い女性を主人公にしながら、実はその時代の女性の生き方や、あるいは現代にも通じる女性としての強さというものを描こうとしているように私には感じられた。
例えば、私などが知っている「瀧澤路」は、まさに「八犬伝」の口述筆記者としての姿であり、物語としてはそこを中心に盛り上げていくものであると読む前は想像していた。ところが、本書ではそこはいわばただの一エピソードに過ぎず、物語の山は夫宗伯の死にあるのだ。つまり、あくまで当時の「嫁」という生き方を描くことが作者の主眼目であったと、そのようなところからもうかがえるのである。
残された日記類をもとにていねいに日常を描き、淡々とした筆致で主人公のドラマティックであるような、平凡であるような生涯を綴っているのに、好感を持った。じんわりと胸の奥にしみいっていくような佳品である。
(2007年1月14日読了)