「なんば」を中心とした大阪ミナミは、「コテコテ」というキーワードで語られる大阪の象徴的存在であり、左脳的な都市であり東京からの侵食を受けやすい大阪キタとは違い、直感的な右脳の都市である。和歌山出身でミナミに親近感のある著者が、現代日本における「大阪」のイメージを形作っている「コテコテ」の源流を探ろうとする試みが本書なのである。
著者は「第五回内国博覧会」を起源とし、それまでは畑であり墓地であり刑場であった土地が都市化していく歴史を活写する。キタの阪急の影響を受けつつも、庶民的な泥臭さを失う事のなかったミナミの秘密を、その起源からたどっていくのである。
ここで語られる「大阪」の物語は、江戸時代から商人の街として発展してきた「船場」を中心とするものでも、関東人の小林一三や関一が新たに創造した大都市大阪を中心とするものでもない。小林も関もここでは脇役であり、主役は南海電鉄と吉本興業となっている。
都市をめぐる物語には様々な視点が必要であり、例えば橋爪紳也などの描き出す都市論とは違う本書のような言説はある意味新鮮である。とはいえ、いくら現代の「コテコテ」大阪を読み解くものだからといって、吉本興業以前に道頓堀の演芸を支配していた松竹芸能と藤山寛美をまったく無視してしまっていたり、アメリカ村に一切触れなかったりするのはなぜだろうかという疑念も浮かぶ。むろん、枚数の限られた新書ですべてを語り尽くす事は不可能なのだが、天満や梅田花月を起点とした吉本興業を無理矢理ミナミの象徴にしてしまい、最も大阪らしい喜劇であるとされていたはずの松竹新喜劇が黙殺される理由くらいはどこかに書いておいてもらいたかった。全国規模で読まれる事を想定した新書で「大阪の笑いは常に吉本興業のものであった」という誤った認識を与えかねない記述には、なにやら恣意的なものが感じられるのである。なにしろ、本書には南海と吉本の社長の対談まで掲載されているのだから、その事に対する遠慮か何かがあるのかと勘ぐってしまうのである。
視点も面白いし、大阪の近代史をわかりやすくかつコンパクトにまとめているというすぐれた内容のものだけに、書かれなかった部分に対するフォローもちゃんとしてほしかったというほかない。あと、「『なんば』はニッポンの右脳である」というのもなにやらこじつけめいていて、本書のもつ大阪近代史概括という意義をキワモノめいたものにしているように思うのだが、これは本を売るためのキャッチコピーと割り切るべきなのだろうか。
(2007年6月11日読了)