著者は朝日新聞の元記者である。刊行時点で74歳。敗戦の日を「少国民」として迎えた世代であり、東京大空襲の記憶も鮮明に残っている。本書は著者が少年時代に抱いた「大東亜戦争」に関する疑問を、その時点に立ち返って問い直し、記者として調べて明らかになったことなどを盛り込みながら、現在の時点で再度同じ疑問を著者自身に、そして現代人につきつけるものである。
著者は敗戦時12歳であった。敗戦の日は疎開先で迎えた。玉音放送は何を言っているのかよくわからなかった。詔勅を大人になって読み直し、降伏するという言葉がどこにもなく、ただポツダム宣言を受諾する旨のことしか書かれていないことを知る。
東京裁判では多くの「戦犯」が裁かれた。著者はA級戦犯についてよりも、B・C級戦犯に対する裁きについて関心を持つ。戦争時に日本が敵国の捕虜にしたのよりもひどいことが日本の捕虜に対して行われていたことも知る。相手は日本人を自分たちと同等の人間とはみなしていなかったのだ。また、人体実験の成果とひきかえに満州で生物兵器を研究していた石井部隊は戦犯の対象から外されたことも知る。東京裁判が本当に公平であったのか。空襲を指揮した米軍将校は、原爆投下を指令した米大統領は「非人道的行為」によって裁かれなければならなかったのではないのか。
戦後、日本国民がまるで神のようにあがめ有り難がったマッカーサー元帥とは実際はどのような人物で、日本のことをどう考えていたのか。
本書は、戦争を知る最後の世代から私たちへのメッセージである。戦争というものの姿を、そこであらわにされる残虐な人間性を、著者は戦後世代に伝え、戦争の愚かさを伝えるリレーのバトンを私たちに渡そうとしているのである。そのためには、加害者としての日本、被害者としての日本の両面をしっかり見据えなければならないと説くのである。
加害者として日本政府は戦後何度も反省の辞を述べさせられてきた。しかし、連合国側は加害者として日本に謝罪したことは一度もないのである。そして、なにかというと「日本は過去を直視しない」「忘れたがっている」と非難されてきた。著者はあとがきでそのような指摘に対する反論をする。
私はナショナリストを嫌う。それは、日本に対してだけではなく、他の国のナショナリストたちに対しても、そうなのだ。国家としての「正義」を唱えて自分の犯した非を正当化する為政者たちに対して、私たちは反対の声をあげねばならないと思っている。本書には、戦争を正当化する「正義」に対する反論がたっぷりとつまっている。著者の差し出したバトンを受けとらねばならないと、読後強く感じた次第である。
(2007年8月25日読了)