かつては「参院のドン」と呼ばれたが、KSDにものつくり大学の事業をつなげるために収賄をしたという容疑で逮捕された村上正邦という人物に、権力の構造をひたすら追い続ける著者が長期にわたってインタビューした内容をまとめたもの。村上氏の言葉をまるで自叙伝であるかのように再構成している。
村上氏は筑豊の炭坑町で育ち、拓殖大学につてで入学した後は応援団のバンカラ学生として過ごす。卒業後は繊維系の会社に勤務し、参議院議院に立候補する予定の玉置和郎とともに「成長の家」に入信した。選挙のために利用するつもりであった宗教団体であったが、そのためには本気で信仰しなければならないことに気がつき「天啓」を受ける。それからは「成長の家」の創始者谷口雅春の主張を政治家として実現しようと思い、玉置に続いて参議院全国区で当選を果たした。
政治家になってからは「成長の家」をはじめとする愛国的な思想を持った宗教団体の力を集めて創価学会に対抗する役割を果たしたり、元号法制化に尽力した。また国対委員として野党にもパイプを持ち、「参院のドン」にのし上がっていく。
本書では冒頭に検察からの理不尽な取り調べについて語り始めている。まさに脅迫ともいうべき自白強要に対する悔しさが文章の端々からにじみ出てくる。村上氏の悔しさは、自分たちが作り上げてきた国に裏切られたという思い、あるいは自分たちが作り上げた国がとんでもないものになっていたという思いからきていると本人は語る。
しかし、私は本書を読んで、その悔しさに違和感を感じた。村上氏は「権力」というものに対して鈍感というか、無自覚すぎるのである。「参院のドン」と呼ばれるほどの権力を持ちながら、自分はそれほどのものではないと語る。それは謙遜ではなく、自分がつかんだ権力の魔力に対する無自覚さからきているように思われる。
だから、自分が権力を手放した後に逮捕されると、犯罪者として扱われてしまったことに怒るのである。自分にはまだ権力があると思っていたからなのだろう。
本書からは、貧困層から叩き上げてきた政治家が何をよりどころにしなければのし上がれないかなど、興味深い要素がたっぷりつまっている。そして、自分の娘をはじめとする障害者に対しての施策なども行いながら、福祉政策と国家主義を矛盾することなく同居させていくあたり、政治家というもののつかみどころのなさが伝わってくる。本人が大儀に殉じているつもりでいるのに、権力の魔力に無自覚だったために近視眼的になってしまう。
著者は一人のもと政治家へのインタビューから、そのような権力の魔力をあぶり出していく。語り手が権力に無自覚な分だけ、書き手はその無自覚さを冷静に書き著すことができたのだろう。権力というものの恐ろしさを追い続ける著者ならではの力作である。
(2008年1月14日読了)