ぼやき日記


8月11日(金)

 朝、ラジオを聞いていたら高校野球の実況中継が始まった。第2試合の山梨学院大付属高校−樟南高校戦で実況が女性の声になった。ABCでは二、三年前から女性アナウンサーの実況中継をしているというのは新聞で読んで知ってたけど、実況を聞くのは初めて。最初はちょっと慣れへんで違和感もあったけれど、聞いてるうちに引き込まれてきた。
 とにかく一所懸命なんですわ。赤江珠緒アナウンサーは確か昨年も何試合か担当してるはずなんやけれど、ふだんプロ野球中継の実況はしてへんから、毎年一から特訓してるみたいやね。とにかく正確にプレイを伝えようという緊張感がラジオを通じて伝わってくる。ややこしいプレイになると何かしら抜けてしまうのを年輩の解説者の方がフォローしようとするのが父親が娘を助けてるみたいな感じになる。コマーシャルの間に先輩から指導を受けているのか、うまく伝えられへんかったプレイについては後の回でゆっくり説明していたりする。
 もちろん植草貞夫アナウンサー以来の伝統である「絶叫のABC」でありますから、長打が出たり得点があったりしたら赤江アナウンサーも絶叫する。ところが女性独特の裏返った絶叫になってないのは立派。えらいもんです。
 少なくともフジテレビみたいに「プロ野球ニュース」のキャスターに野球の野の字も知らへん女性アナウンサーを起用しておまえ遊んでんのかといわんばかりにはしゃがせるのと比べたら雲泥の差やね。どうも各テレビ局でスポーツキャスターに女性を起用するのがお好きみたいやけれど、ABCみたいに実況までちゃんとさせたらどないや。
 赤江アナウンサーはまだまだこれからという感じやったけれど、高校野球だけやなしにプロ野球の実況もしてもらいたいところやね。今のところは状況を伝えるのが精一杯という感じやけれど、慣れてきたらこれまでの男性アナウンサーとはまた違う切り口の実況が楽しめると思う。
 私は赤江アナウンサーのファンになったぞー。プロ野球の実況もぜひぜひしてほしい。そして福本さんの天然解説に対抗していただきたい。どんな中継になるんやろう。わくわく。

8月12日(土)

 ここのところふだんの読書傾向とは全く違うジャンルの本を立て続けに読み、また読む予定になっている。SF関係とは別口のお仕事が入ったためやねんけど、実はある共通項でくくられた本ばかり。このサイトの「読書感想文」のコーナーでこれからおいおい明らかになっていくと思うけれど、さてどんな共通項があるでしょうか。毎日感想文を読んでいただいてどんな共通項があるのか推理していただき、実際に原稿が活字になったときに「おおやっぱり」と手を叩いていただくという趣向になっている、というわけでもないけれど、興味のある方は楽しみにして下され。いや、私もいろんなジャンルの小説を読む楽しみを久々に思い出しておるのです。お仕事でないとそういう読書がでけへんというのには問題があるけどね。

 ご存知の方には旧聞に属することかもしれへんけれど、今週発売の週刊誌を読んでいたら、面白いものが発売されているのが紹介されていた。
 なんとあの学研が大人向けにあの「×年の科学」の付録を発売してるんですね。名前も「大人の科学」。四種類発売していて「エジソン式コップ蓄音機」「マルコーニ式電波カー」「ボルタ式&備長炭電池実験セット」「地球環境分析セット」と名称だけでそそられるやないですか。価格は税込みで3500〜3000円と手を出しやすいところに設定してある。いやこれ、写真を見ているだけでむらむらと物欲をかきたてる。「コップ蓄音機」やとか「電池実験セット」なんて今すぐ組み立てたくなるネーミングやね。そそられませんか。わかる人にはわかっていただけると思う。ほら、モニタの前でうなずいてるあなたですよ。
 いつやったか京都SFフェスティバルの合宿で「科学」の付録話で盛り上がったことがあったけど、子ども時代の私たちにとっては理科工作の入口やったわけで、実際に「ダイオードラジオ」からかすかに音が聞こえてきたり(NHKしかはいらなんだけど)、「卓上掃除機」が消しゴムのカスを吸い込んだり、「アリ飼育セット」でアリさんがほんまに巣を作ったりしたときの心打ち震える記憶は消そうとしても消えません。「プランクトン培養セット」で水が腐って培養に失敗したときの悔しい思いも昨日のように思い出す。
 「大人の科学」のサイトから直接注文できるというのでクリックしかけたんやけれど、「これを買うてどこに置くんや」と内なる声が響いてきて、現在保留しておるのですが、やっぱり欲しいなあ。紙コップの蓄音機やからなあ、本の下敷きになったら木っ端みじんになりそうやからなあ。ううむううむと葛藤しておるのです。もうすでに1万個を越える売り上げやそうやから、持ってはる人もいてるんやろうなあ。とりあえず買うといて、広いお家に引っ越して、それから作るという手もあるけど、届いたらすぐに封を切って作ってしまうに決まってる。欲望を抑えきれるわけないやん。さて、どないしよう。ちょっと悩む今日この頃であります。

8月13日(日)

 今日は一日本ばかり読んでいたんで、特に日記に書くこともなし。それでは愛想がないんで、昨日、横浜みやげを実家に持っていったときに京都の町で拾った小ネタでごあいさついたしましょう。

 阪急電車の駅で、貼り紙を見た。「許しませんでしょう!」とは書いてなくて「エスカレーターを駆け下りるのは危険です」やの「神戸王子動物園にパンダがいます」という告知のポスターだ。各駅にそういうポスターがはってあるんやけれど、「駆け込み乗車は危険ですのでおやめ下さい。 ステーションマスター」と告知人の名前が書いてある。「駅長」のことか? 知らん間に阪急は駅長のことを「ステーションマスター」と呼ぶようになったらしい。その割にはステーションマスターのいる部屋の入口には「駅長室」と書いてあったぞ。阪急は他の電鉄会社のやらへんことを次々とやり、結局他のところもみんな阪急に準じることになるケースが関西では多いけれど、これは定着してほしくないなあ。なんか駅の内部が迷路みたいになっていて敵を倒して経験値を上げてアイテムを手に入れへんと電車に乗られへんみたいやないですか。いくらハイカラ阪急でも「ステーションマスター」はやりすぎやと思う。

 河原町通を歩いていたら、ガングロ娘たちが3人ほど立ち話をしている。そのうちの一人は2歳くらいの子どもを抱いていた。彼女はガングロ娘やなしにガングロ母ちゃんやったんか。その子どもは色白で地味なワンピースを着ていた。ここで娘にも日焼けをさせて子ども用のこっぽりをはかせたりしてたら面白かったのに。そうなると「だっこちゃん」人形みたいやな。いや、もしかしたら「だっこちゃん」は差別的であると抗議を受けるんで自主規制して子どもは普通の格好をさせてる、わけあらへんがな。しかしガングロ娘がごく普通の赤ちゃんを抱いている姿は違和感ありまくりでした。いや、結婚して子どもを産んでもガングロを貫き通す筋の通し方に感心したりもしているんやけどね、実は。

 三条通を歩いていたら、カタカナで「ドット・コム」と書かれてる看板が目に入った。新しいコンピュータ関連の店がまたできたんかいなと思うて看板をよく見ると、カタカナの下にアルファベットで「COM.」と書かれてる。まてよ、それやったら「コム・ドット」やんか。コンピュータの店にしたら変やなあとよくよく見ると、これがなんとパチンコ屋。パチンコ屋の屋号が「ドット・コム」もけったいな具合やなあと思うたけど、よくよく考えてみると「どっと混む」のシャレと違うかな。それにしても「COM.」はないやろう。もっとも、このインチキ臭さがけっこうええやんと楽しんでたりもしているんやけどね、実は。

8月14日(月)

 今日やっとbk1の今月分の原稿を送稿。SF大会の前にゲラをもろてたのに、えらい時間がかかってしもうた。リニューアル開店に間に合うかしらん。
 bk1というと、まとめて文庫本を注文したのが先週から今週にかけてばたばたと届いた。あれで気にかかるのが、送ってきた本のスリップを抜いてへんことやね。普通の書店やったら売れた本を補充したり、またその本の版元から次に1冊でも配本してもらえるようにきちっとスリップを抜く。新しく入ったアルバイトは忘れたりするんで、そんな時は私は「スリップ抜いてませんよ」と声をかけるくらい。あれがはさまってると気になる。正規に購入したのに、そうでないみたいに見えるからね。
 bk1でスリップを抜かへんのは在庫の補充なんかはスリップを使うてへんからやろね。というわけで、bk1で買うた本はしおりがわりにスリップを使うてます。
 スリップといえば、最近スリップいっちょで歩いている中年女性をあんまり見かけへんようになったなあ。私は子どものころ町工場の多い下町に住んでいたんやけど、ノーブラでスリップだけ着てそこらをうろうろしてる中年女性が必ずいた。あ、スリップとは言わへんな。シュミーズと言うてましたな。シュミーズやなかったら、そのかわりにアッパッパを着てはったりした。あ、アッパッパではわかりませんか。ムームーというたらええんかな。薄手の腰の区切りのないワンピースですわ。あれ、百貨店ではホームドレスと呼ぶんやと妻に教えてもろうた。ホームドレスてな上品な呼び方をしたらわからへんがな。アッパッパはアッパッパでしょう。妻といっしょになんでやろと考えてたら「Tシャツ文化にとってかわられたんやわ」との卓見。なるほど。Tシャツにジーンズ姿の中年女性はよく見る。あれやったらアッパッパやらシュミーズみたいにだらしない印象は与えへんわな。
 そういえば、ステテコにぞうりという中年男性も見かけへんね。うちの父は夏なんか家の中ではステテコのままうろうろしてたけどね。そのまま外をうろうろしたりする中年男性は多かった。これもTシャツにジーンズが駆逐したかな。
 というわけで、本にスリップが入ったままやとどうも私は落ちつかんのですわ。

8月15日(火)

 ええいもう。東京ドームのジャイアンツ戦ほど実況を聞いてて腹が立つもんはない。ジャイアンツを応援するような実況やったら、それはそれで許す。甲子園ではタイガースびいきの、広島ではカープびいきの、そして名古屋ではドラゴンズびいきの実況をやってるからね。しかし、東京ドームのジャイアンツ戦のアナウンサーと解説者は違うんや。ジャイアンツの打者は打って当然、投手は抑えて当然、打たれへんかったり抑えられへんかったりしたら、まるで運が悪かっただけといわんばかりの実況をしよる。けったクソ悪い。これでジャイアンツが負けたらおもろいんやけど、勝ちよるさかいよけいけったクソ悪い。ジャイアンツの勝利に酔っぱらってしもうてる。ああいう手合いには20−0くらいの完膚無きまでに叩きのめすという試合をしてやらんと酔いはさめへんと思うぞ。そんな試合をしてくれへんかなあタイガース。でけへんわなあ。

 今日は京都へ墓参りに。うちの宗旨は浄土真宗大谷派(「東本願寺」の方)で、お参りをするときに「法名板」なるヘギを購入し、備え付けてある筆で「喜多家先祖代々 志 喜多哲士」というふうに墨で書き、お墓にお供えする。毎回墓参りをするたびに「次に来るまでには習字の稽古をしておこう」と思うんやけれど、墓参りが終わったらきれいさっぱり忘れてしまい、次にお参りするときに「今度こそ習字の稽古を……」。こういうのを輪廻というんですな。いわへんいわへん。
 輪廻というと、参道に吊り下げられてある提灯に「帰ろう もとのいのちに」と書かれていた。あれはどういう意味かしらん。「早う死んで輪廻転生しなさい」という意味か。「輪廻転生する前の前世の記憶を取り戻しなさい」という意味やないとは思う。お盆で帰ってきてるご先祖さんの霊魂が私らに対して「帰るぞ」と呼びかけてるということか。「もとのいのち」というところがわからん。
 だいたい真宗というのは念仏を絶やさず唱えていたら極楽往生できるという宗旨であって、輪廻転生とは関係ないはずやし、「もとのいのち」も「あとのいのち」もないと思うけど、これは私の認識不足か? まあ「歎異抄」も読んだことがなく念仏もお墓の前とお葬式の時にしか唱えへん不信心ものにはわかりかねることではありますが。これでも一応社会の教師でしかも高校の「倫理」で採用試験に合格したんやから、宗教哲学思想の基本は知識としてあるはずなんやけれど、奥深くなるとてんとわからん。こんなんでもし普通科の高校に異動でもしたらどないなるねんやろ。
 とにかく「もとのいのち」の意味がわからん。「いのちのもと」やったらタイムボカンシリーズの「ゼンダマン」なんやけど。関係ないがな。

8月16日(水)

 毎日暑いですねえ。近畿地方はほとんど雨が降らん。夕立一つ降らん。そのくせ湿度が高いんでじき汗だくになる。昨日の墓参りなんかちょっと歩いただけで汗でTシャツはずくずくや。妻に言われてもう一枚Tシャツを持参し、百貨店のトイレで着替えたくらい。
 静岡の方では集中豪雨があったらしいね。今朝の新聞によるとキャンプ場で増水した川の中州に取り残された9人の若者たちを助けにレスキュー隊員が行ったら、そいつらはロープを伝ってたどり着いた様子を見て爆笑し、「触るんじゃねえ」「勝手に助けにきたくせにうるせえんだよ」「自分たちで帰れた」とか言うたそうですな。レスキュー隊員も災難やね。こんな連中は助けたないと思うたに違いない。売り言葉に買い言葉で「それなら自分で渡りたまえ」とは言われへんもんなあ。さすがレスキュー隊員、精神鍛錬ができている。私やったら「アホは死ね」と捨てぜりふを残して帰ってしまうところやぞ。そこで助けんと帰ったら、そいつらが死んだ時に責任を問われるのはレスキュー隊員やろうしね。遺体を探しに危ないところへ行かなならんからよけいに手間がかかる。
 ふだん原チャリで町を走ってると、「自分は事故にはあわない」と確信してるとしか言いようのない輩にちょくちょく遭遇する。私がそれなりのスピードで走ってきてるのに平気で道を横切る歩行者。ヘルメットを首に引っかけて携帯電話でしゃべりながら単車を運転する奴。渋滞をすり抜けるのに交差点で右折車がくるのを確認しない単車乗り。私が車と歩道の間をゆっくり走ってたらむりやり追い越そうとして割り込んでくる原チャリ。こういう人たちを見ると「一度事故にあわんとわからんのやろうなあ、いや、事故におうたら相手のせいにして自分は悪うないと主張しよるんやろうなあ」と思う。
 くだんの若者たちも自分らで川を渡って水に足をとられて溺れたりしたら「自分が溺れているのにレスキュー隊員が助けに来なかった」と怒るんやないかと思う。助けてもろうても「ありがとう」の一言もないのと違うやろか。勝手に決めつけるのはよくないけど、そうなると思うよ。
 レスキュー隊員の方たちの忍耐力にはほとほと感心する。私ゃようやらん。

8月17日(木)

 今日も駅前のスーパーへ。この日記のネタを探しに行ってるんやないけど、犬も歩けば棒に当たるで外出したらなんなと目につくものはありますね。
 スーパーに行く途中で、信号を渡っててふと目についたのが小さなゴミ箱。電柱の影になってて見えにくいんやけど、バス停の灰皿みたいなのがちょこんと立ててある。信号待ちをしている人が煙草でもすうて吸い殻をまきちらさんように置いてあるんやとばっかり思うてた。
 信号待ちをしているときによくよく見ると、これはゴミ箱やなかった。黄色い旗を立てる入れ物やったんだ。昔は信号がある交差点なんか限られてたから、信号のない横断歩道のところには必ず黄色い旗が何本か立ててあったもんです。子どもはその旗をよう見えるように持って交差点を渡るように教えられた。ところがあの旗はじきになくなりますねん。子どもにしたらええ玩具ですわ。横断歩道を渡ったあともその入れ物に返さんと学校まで持っていってそれを振り回して遊ぶ奴がおった。4月に新しいのが補充されても、3月までには必ず1本残らずどこかに消えてたもんです。
 そうなると、空になった入れ物は手頃なゴミ箱ですわ。3月ごろにはガムのカスやら煙草の吸い殻やらが底にたまって汚らしい。黄色く塗ってあったペンキが端からはがれて錆が浮いてきたりしてね。そのうち各交差点に信号がつくようになると、黄色い旗はお役ごめんになったとみえて、最近は私の周辺ではまず見たことがない。ここ10年くらい見たことないのと違うかな。
 旗がなくなっても入れ物は残る。たいてい邪魔になって設置者が(「ライオンズクラブ」と書いてあるのが多かった気がする)撤去してるはずやけど、生き残りがあったんですな。当地に引っ越してきて6年近くなるけれど、私はあれはてっきりゴミ箱やと思いこんでた。というか、黄色い旗のこと自体忘れ去ってた。
 大阪みたいな都市部では黄色い旗なんかすたれてしもうてるけれど、地方に行ったらまだあるんかな。時々円柱型の郵便ポストが生き残ってたり赤い公衆電話が生き残ってたりするのを見つけると「おお、お達者でしたか」と思わず握手したくなるような気になるけれど、黄色い旗はどうなんやろうね。
 もし街角の交差点で黄色い旗を見かけたら、ついつい持って帰りたくなるやろうなあ。そんなことしたら盗人やからその欲望を理性で押さえつけることになるとは思うけど。欲望の方が理性に勝ってしまいそうな気もするなあ。

8月18日(金)

 今日は午前中少し日が陰っていたせいか比較的涼しかったけど、夕方からはまた蒸し暑くなった。そやけど夏が少しずつ終わっていくんやなあと感じるのは、蝉の声やね。あれだけシヤアシャアシャアシャアと騒がしかったクマゼミの声から、オーシーツクツクオーシーツクツクとツクツクボウシの声にいつの間にかかわってる。
 それやのに少なくならんのが蚊ですわ。夕方からはリキッド式の蚊取りにスイッチを入れてるんやけど、布団にもぐり込んだらいずこからか人の血液を狙うてやって来る。昨夜もやっと寝付いたころに人の足の裏をわざわざ咬みよるんだ。
 足の裏を咬まれるほどきついことはないね。すぐに目がさめた。ベランダのアロエの葉をちぎってきて葉の肉の部分の汁をかまれたところに塗りつけると、これがよく効いてしばらくしたらかゆみは治まった。
 リキッド式の蚊取りなんか効かへんわいと持ち出してきたのが蚊取り線香。これは効く。しかし煙い。さあ寝ようと寝床に入ると耳元で蚊がヴーーーンと羽音を鳴らしよる。タオルケットを頭のてっぺんから足の先まで体に巻きつけて防御する。エジプトのミイラ状態ですわ。さすがに蚊もしばらく耳元でワンワン飛んでおったけれど、蚊取り線香の煙に負けてどこかへ行きよった。
 寝ている間にタオルケットを跳ね飛ばしてはいたけれど、しばらくミイラ状態になってたせいで、朝起きたら寝汗で上半身はずくずくに。着替えんと新聞を読んでたら急激に冷えておなかをこわしてしもうた。
 蚊に咬まれて腹を下すなんてほんまにあほらしい。蚊なんか嫌い。暑いのは嫌。早く涼しくなってくれい。

 20日の日曜日は「たちよみの会」例会です。興味のある方はぜひ一度ご参加をよろしく。

8月19日(土)

 ここのところ毎日某誌の特集記事のための読書にかかりきり。若い頃に読んだ本も引っぱり出してきて10数年ぶりに再読などということもしている。読み返してみると自分の記憶と話が違うたりするのが面白い。人間の記憶というのはええかげんなもんで、「あの話はこういうところが面白かったなあ」と面白かったところだけ美化して細部はきれいに忘れ去っているのですね。「面白かった」という印象だけ残ってて内容は全然憶えてなかったりする。この年になって読み返したら意外にしょうもなかったり若い頃読んだときよりも引きつけられたりと、まるで初めて読むみたいな気持ちになってる。
 今回読み返している本は確か1回だけしか読んでへんものが多くて、まあだいたい私の場合再読三読してる本というのは限られてるからたいていの本が1回しか読んでへんかったりするんやけれど、よう考えたら再読するなんて思いもよらなんだ本が混じっている。それもお仕事関係(つまりSF関係の本)やない本やったりする。その本を本の山から掘り出していると、この本は読んだはずやけど中身は全然憶えてないわというものがそうとうある。エラリー・クイーンの「国名シリーズ」全巻とか。エドガー・ライス・バロウズの「火星シリーズ」「ターザン・シリーズ」「月シリーズ」……。シリーズばっかりやないけどね。
 今の仕事の中心は新刊の書評やからそういう本を再読する機会があるかどうかわからへんけれど、仕事次第では1回読んだきりの本をまた引っぱり出すこともあるやろうなあと思いながらそういう本の背表紙を眺めたりしていた。おまえは仕事でなかったら本を読まんのかと思われても仕方ないけれど、現状は仕事読みの本を優先せざるを得んからね。なんとか合間に買うたまま1度も読まずにほってあった本を掘り出して読んだりしている程度で。
 それだけに今回の特集記事のお仕事はありがたい機会ではあります。新刊書評の連載のあとはそういう本の虫干しみたいなお仕事をずっとしてみたいなあというのはわがままかなあ。

8月20日(日)

 「たちよみの会」例会の終わりごろ、携帯電話の電磁波が心臓のペースメーカーにあたえる影響という話になった。そこで岡田英之さんが教えてくれたのが、CDショップの防犯用のゲートでも同じ障害が起こるというもの。こういう時に自分の浅学非才なることが恥ずかしくなるんやけれど、聞くは一時の恥聞かずは一生の恥。知らんことはなんでも聞いたらよろしい。
 CDショップの横に小さな入口が作ってあって、ペースメーカーを使用している人が通れるようにしてあるらしい。ゲートに渦巻きの模様があるのはコイルやそうです。なんも考えんとぼーっと生きてるとそんなことも見逃してしまう。
 そういうゲートがあるのはCDショップだけやない。図書館にもある。図書館でもやはり横にペースメーカー使用者用の通路があるらしい。
 さてここから先がみんなで悩んだところです。CDショップの場合は、CDにはりつけてあるタグをはがしたりはずしたりする。タグがついてなかったらゲートは警報を鳴らさへん。図書館の場合は、本を台の上に置いてがっしゃんと仕掛けをほどこすだけ。特にタグをはがすとかそういうようなことはしませんな。それだけでゲートを通過できる。どう仕組みが違うのか。バーコードを読みとって1冊ごとに解除するのか。それにしては処理が早すぎないか。なにかついているのを無効にする装置やろうけれど、どうも仕掛けがわからへん。
 中には別に無効にせずに本を渡してしまう図書館もあって、そういう所では係員が必ず貸し出した人にくっついてゲートをくぐるんで、警報が鳴っても係員がいっしょにいたら職員はそのまま通らせるとか。それはまあ例外ですわな。
 結局メンバーに図書館の内情にくわしい人間がおらなんだこともあって「わからんねえ」でおしまいになったんやけれど、ささいなことながら、気になるものは気になる。
 というわけで、あれはどういう仕組みになってるんでしょうか。もしご存知であれば教えていただきたいのです。「図書館の極秘条項になっていて教えられません。そんなことを教えたら本を勝手に持って帰る人が出てくるといけない」ということがあるかもしれませんが、そこを曲げて教えていただけませんでしょうか。ぜひぜひよろしくお願いいたします。


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